ユング派が目指している理想の社会とは、どのようなものだろうか。ユング派という少数のエリート達が、その他大勢の愚民どもを完全に支配する社会である。支配は、愚民たちの一挙手一投足にまで及ぶ。これは、現在の現段階でのITなどの科学技術をもってしてもおそらく可能だろう。ユング派というものは、人間にはすべからく個性がないと考えている(「ミツバチの巣で死神を見た」( http://gorom2.blogspot.jp/2014/12/blog-post_97.html ))。人はミツバチの一匹になる。集合的無意識などという、ありもしない奇矯な概念をたてたのだから、AさんもBさんもCさんもDさんも、心は皆同じなわけである。考えていることも同じようなことであり、感じていることも大体同じなのである。人には違いというものがないのだから、プライバシーなどという余計なものを認める必要はなかろう、というわけである。人には、その人にしかないものがある、それぞれ独自性がある、個性がある、ということを前提にするからこそ、プライバシーという概念が生きてくるのである。ユング派の人々とは、他人にも自分自身にもプライバシーを認めない人々である。ユング派がこのような謀議を仲間内だけでこっそりと行っているというよりも、ユンギアンになればこのようなことを考えてしまう人格傾向になるということである。ユンギアンは、世界中の人々がユング心理学一色に染め上げられたらよいと考えている。新国立劇場で遠山敦子が行ったことを思い出していただければ、成程と納得できるだろう。芸術に関して意見の違う芸術家に、芸術の素人のくせに強圧的な弾圧を加えている。これは、もう専制君主、しかも暴君の所業ではないか。反対意見や少数意見を絶対に認めないのである。そのようなものは、強大な権力を背景にして叩きのめそうとする。場合によっては反対意見の持ち主に精神異常のレッテルを貼って社会から締め出そうとするのである。これはユンギアンになれば、誰しも“必然的に”このような傾向の人格の持ち主になるということである。ここまでユング派がのさばってしまい、権力とも手を握ったようだから、もうユング派に対して打つ手は限らている。本来ならば、やってはいけないことも、せざるをえなくなってしまったようである。遠い遠い昔の記憶が甦ってくる。2千年以上も昔の中国で行なわれたことである。中国古代の秦の始皇帝が行なった焚書坑儒である。ユング派を社会から追放し、ユング心理学関係の心理学書を焼き捨てて、ユング心理学関係の書物を持っているだけで麻薬や覚醒剤の所持と同様に、犯罪に問われるようにしなければどうしようもないところまで来てしまった。でないと、人類の滅亡を防ぐことができないだろう。
ユング派の大多数の被支配階級の人々に対する支配は、人生でいちばん重要なこと、つまり職業選択と配偶者選択にまでも及ぶ。A君はB子さんと恋仲にあるようだが、ふたりの仲を邪魔して引き離しなさい。かわりに、A君はC子さんと結婚するように仕向けなければならない。それが集合的無意識からの至上命令である。A君は、われわれが再三警告していたにもかかわらず、入りたいD社に就職した。これは、集合的無意識の意向に反する反逆的な蛮行である。A君がD社におれなくなるように取り計らうべきである。そして、A君が退職せざるをえなくなるように追い詰めていかなければならない。このようにA君の就職についても、同様の操作が行なわれる。そして、このような操作・コントロールはA君の人生全般にまで及ばされるのである。このような“愚民”に対する操作やコントロールは、もう既に広範囲で行なわれているはずである。被害者本人が気がつかないだけなのである。特にその被害者が、ユングにかぶれたりなんかしていると、尚更のこと自分がコントロールされていることに気がつきにくい。龍谷大学文学部の小島勝教授は、最初の奥さんを離縁して、後に再婚した。そのとき子どもは中学生か高校生だった。この話を聞けば、誰しも最初の結婚の解消に疑問を感じるだろう。そして、二度目の奥さんは、河合隼雄元京都大学教育学部教授の弟子なのである。ユング派の心理療法家なのだろう。だから、小島勝教授を実行犯とする僕に対する詐欺事件で、小島教授と正犯である河合隼雄と氏原寛の間の橋渡しをしたのが小島教授の新しい夫人だろうと考えている。そして、この小島教授の新夫人には略奪愛の臭いがしなくもない。略奪愛は愛ではない。小島教授は、新しい嫁はんにすっかり感化され洗脳されてしまった。ユング心理学に、のめり込んでしまい、まるで狂信的なカルトの信者のようになってしまった。この新夫人については、名前も顔も知らないのであるけれども、あるひとりの女性ユンギアンの名前が思い浮かんだ。それは、15~30年ほど前に氏原寛と共著で心理学書を出版したひとりの女性カウンセラーの名前である。この女性ユンギアンが、小島教授の夫人であるという証拠は何もない。ただ、可能性として考えただけである。小島教授の再婚にあたっては、河合隼雄か氏原寛が世話をしたのではないかと思う。この上なくお節介なやつらではないか。あたかも他人の人生を私物化しているかのような観がある。ユンギアンというものは、人の人生を完全に掌握し、あたかも自分のものででもあるかのように操作を加えてやろうとするものである。これは、集合的無意識などという人類に共通する無意識なる奇矯な概念をたてたからである。つまり、わたしの内なる集合的無意識は、君の内にあるものと全く同じなのだ。わたしのものと君のものとが同じである以上、わたしが集合的無意識からのお告げによってよいと信じることは、君もよいと信じなければならぬ。その反対の考え方は許されないのだ。だから、わたしは力づくででも君の人生に介入し、君が誤った方向に進むことのないように指導してやろうではないか、ということになる。しかしここで、フロイトの精神分析(いわゆるフロイト派)と違って、ユング派は逆転移を否定しない、ということを思い出してほしい。ユング派の強力な無理強いの他人の人生への支配は、彼らの逆転移によるものである。彼ら自身の内に、未解決の重大な心理学的な問題が存するのである。それは、いま恋に陥っている人や恋愛結婚をした人を見たときに感じる妬ましさ・羨望の感情から変化した敵愾心であるかもしれない。そうして、この恋愛をぶち壊してやろうとする方向に突っ走る。他人の恋愛を邪魔だてすることによって、彼らは癒やされたと感じる。このような逆転移による感情的な反応が、他者の人生の重大な局面において他者を厳しく峻烈に支配しようとしていることに、彼ら自身が気づかないのである。小島勝教授は、僕に対する犯罪事件の実行犯である。向こうから勝手にヘラヘラ笑いながら近づいてきたくせに、詐欺を行なって、僕が抗議しても今度は完全に無視しやがる。以上に書いたようなことは、本当ならブログに書いてはいけないことは当然である。しかし、犯罪の被害に遭った以上、その被害の後始末さえしてくれそうもない以上、書くのもやむをえないと考えた。ただし、これをブログに書くことについては、小島勝教授の了承を得ている。しかし、小島教授は僕がメールを送っても一切返信してくれないのだから、「看做し了承」とでもいったらよいようなものではあるけれども。小島教授は、ああ、そうか、ブログに書きたいなら書いてみろ、そんなことぐらいでわいはな、びくともせえへんわい、とでも言っているかのようである。遠くから眺めていただけではあるけれども、若い頃は少し神経質そうなところはあるにしても真摯で誠実そうな人柄であるとお見受けしていた。ところが、ユング心理学と出会い、おそらくは“個性化”(individualization)を果たしたことによって、人格が激変したのであろう。矢でも鉄砲でも持って来い、という心境になっている。これは、たぶん遠山敦子が名づけた“安寧”がしからしむるところであろう。“安寧”という用語は、おかしい。これは法律用語だろう。安寧秩序の安寧である。“平安”というのが正しい。神の愛による平安、仏を念じることによって得られる平安、とすべきところである。だが、この“安寧”というネーミングには、この語の名づけ親のすさまじい意気込みがこめられているように思われる。“平安”などというような生っちょろいものではないのだ。“安寧”には、もっと激烈な効能があるのである、と。もしかしたら、そうかもしれない。安寧を獲得したら、精神はゆったりとして落ち着いて物事に動じなくなるかのように見えるかもしれない。しかしこの安寧の恩恵を受けているのは、当のその安寧を得たひとりの人だけに限られている。周囲の人たちは、たまったものではないのである。ユング派の押しつけがましさは、人のためを思ってのことではなく、すべて自分だけのための利己的な動機に由来するものである。ユンギアンは、自分の安寧のためには平気で人を地獄に突き落とすようなことをする。平安と安寧との根本的な違いである。
韓国の民話だったと思う。“生き仏”という題名がついていた。ある仏道修行者は厳しい修行をして、今、生き仏になる一歩手前の境地にまで到達している。もう一息で生き仏になれる。その時、近所に住んでいる子どもだったと思うが、子どもに災いが降りかかる。子どもが災いから逃れるためには、この仏道修行者の助けが必要である。子どもの母親の助けを求める懇願を、修行者は、今、生き仏になるための大事な最終の段階にいるのだ、といって拒否する。すると、その仏道修行者は、生き仏になることができなかったのである。かわりに、この仏道修行者よりも劣った修行者と見られていた修行者が、子どもを助けた。この生き仏になるには、まだまだ修行が足りないと思われていた修行者が、実際に生き仏になったのである。
これでは大多数を占める被支配階級の人々は、やがてその生命力を失っていくことだろう。病気にかかりやすくなる。常に元気がなく、何事に対しても意欲が湧かなくなる。これは、野生の植物が栽培植物になったときに喪失した生命力と同等のものだろう。また、狼が飼い犬になったときに失ったものとも同じだろう。また、これは栽培植物であるけれども、ほうれん草が本来それが育つ季節(旬)以外の季節に育てられたときに失った生命力ともいえるだろう。この場合のほうれん草は、野生でなくなったときと、ビニールハウスで育てられたときの二度、この大きな災難に直面させられたのである。もう瀕死の状態であるといってもよい。以前に、蜜蜂が一匹近寄ってきて、まとわりついてきて困ったことがある。そのうちに、その蜜蜂は前に置いてあった壷の中に自分で入っていき、水に溺れて死んでしまった。鈍重で間抜けな蜂だと思った。もしかしたら、養蜂家が蜂蜜を採取するために飼っていた蜜蜂であったかもしれない。人に飼われているために、生命力が減退したか、ほとんど失われてしまっているのである。ユング派が世界を支配するようなことにでもなれば、死の世界が訪れてくるのである。
これでは人類の滅亡は近いといわなければならないだろう。
「時効完成否定理論」( http://gorom2.blogspot.jp/2015/10/blog-post.html )に少し書き加えました。後ろのほうの紫の背景箇所。
2015年10月6日火曜日
2015年10月5日月曜日
時効完成否定理論
時効とは、本当に忌まわしい制度である。初めてこれを考え出したのは、ドイツ人の法学者であろうが、お節介な余計なことをしてくれたものである。社会的安定性が根拠になっているようだが、間違った方向で安定してしまっているのである。何故もとの正しい状態に戻してはいけないのか、その理由が分からない。近年、時効を廃止する趨勢にあるようだが、たいへん結構なことである。
「遠山敦子の犯罪」( http://gorom8.blogspot.jp/2015/09/blog-post_4.html )
遠山敦子の犯罪の罰条に、職権濫用罪を追加する。理事長といえども、新国立劇場で公演される芸術作品の内容にまで介入する権限はないはずである。また、芸術監督3人を一時(いちどき)に交代させたことは、極めて異常な事態である。その交代の理由が、遠山敦子の主観的で個人的な単なる思い込みから導き出されたものであることを推定せざるをえない。表向きの理由は、これらの芸術監督とはコミュニケートできないということであったが、社会人であり大の大人である3人の芸術監督に対して、あまりにも愚弄した名誉を傷つけ人格をも傷つける言葉である。遠山敦子の品性・人格を疑わしめる表現である。これは、芸術に対する見方・考え方が自分と異なる芸術家に対して、遠山が理事長という職権を利用して激しい敵愾心と侮蔑の念をもって行なった弾圧である。ユング心理学に夢中になり、その信奉者になった遠山は、ユング心理学の非人間的な特徴を反映して、遠山の人格も極めて非人間的なものになってしまっている。本来的には遠山敦子は、芸術に対して侮蔑の念を抱いていると考えられる。芸術や芸術家に対して侮蔑する感情を抱いておりながら、自分を芸術家だと思い込んでしまったのは実に奇怪なことであった。芸術監督3人を交代させたことも、職権濫用罪に該当する。さらに、名誉毀損罪にも該当する。
また、器物損壊罪は親告罪である。だから僕がいくら、これは犯罪だと騒いでいても聞き届けてもらえないのである。何とかしなければいけない。
しかし、遠山敦子の犯罪の多くは、既に公訴の時効が完成していると考えられる。そこで、この時効の壁を突破するために、時効による消滅を否定する理論を構築中である。これは、もともと僕自身の被害が時効の完成によって訴える権利が消滅しているのを何とかしようとして思いついたものだった。遠山敦子の犯罪のケースにも、やや難しそうな点はあるにしても、適用は可能なのではないかと思われる。犯罪のある特殊なケースに適用しうる時効消滅消滅理論(これは面白いネーミングではあるけれども、あまり適切ではない。“時効完成否定理論”としたほうがよいかもしれない)という。理論といっても、そんなに大仰なものではなく、ちょっと見方・視点を変えただけである。それで、僕に対する犯罪事件や遠山敦子の犯罪が、まだ公訴の時効が完成していないことを立証しようというものである。僕の性格を反映してか、たいへん偏屈でひねくれた理論となっている。裁判所が認めてくれる確率は、50パーセントぐらいか。ただ、これはあらゆる犯罪事件に適用できるものではなく、一部のケースにのみ可能である。
創価学会池田名誉会長のレイプ事件にも適用可能であると考えられる。被害者の女性は事件後、はなはだしい精神的苦痛を抱えたまま生きることを強いられた。そのような精神状態のときに、告訴などということがどうして思い浮かぶだろうか。ただ生きていることが精一杯なのである。死の谷をさまよっているのである。そうして時間だけがどんどん過ぎ去っていき、はっと気がついたときには、もう時効によって消滅してしまっている。創価学会の信者の半数くらいは女性だろう。そのたくさんいる女性信者までもが、自分と同じジェンダーの被害者女性をさらに痛めつけているのが不思議でならない。創価の女性信者たちは何を考えているのだろう。ユング心理学と同じように、創価学会は自己の内なる罪の意識の息の根を止めてやろうと画策する邪教である。
ユング派の世界制覇の野望は、まず文化的宗教的な方面から達成に向けて着手される。そのプロパガンダの最前線に立っているのが、村上春樹であり宮崎駿である。僕はどうやら、このプロパガンダの旗手に抜擢されようとしたらしい。冗談ではない。誰がそんなピエロみたいなものになってやるか(「芸術暗黒時代」( http://gorom2.blogspot.jp/2015/09/blog-post_26.html ))。その次に政治的な分野に触手を伸ばすわけであるが、これももう既に行なわれている。小泉純一郎元首相や遠山敦子元文相は、ユング心理学や河合隼雄にすっかり参ってしまい惚れこんでしまった。そして、ユング派の野望の達成のための現実的な手段は、年をおうごとに洗練され高度化されているようである。それはIT技術の飛躍的発展の成果をも取り入れたものになっているようである。もう、あからさまな脅迫とか詐欺といった幼稚で拙劣な手段は用いられなくなったようである。そのために僕は、龍谷大学での詐欺・脅迫事件以降は、僕に対する虐待の証拠をあげることができなくなった。大きな組織が個人を執拗に付け狙って犯罪・違法行為さえ行っているのに、急に何の理由もなく大波が退くようにさっと手を引くことがありうるだろうか。今は、世界中どこにいても、インターネットに接続していなくても、スマートフォンで自分の位置情報を正確に把握できる時代なのである。また、そのインターネット自体は、何者かによって完全に支配されコントロールされていると感じる(「インターネットは誰かに支配されているのか」 http://moriyamag.blogspot.jp/2014/02/blog-post_12.html )
。このインターネット支配は、ごく一部のひとのWebサイトを標的にするだけで目的を達成することができる。料理のレシピや家庭園芸のサイトを操作してみたところで、なんにもならないのである。そのような人畜無害の大部分のサイトは野放しにされている。これはと思ったサイトだけを標的にすればよい、ということになる。そうすると、インターネットがおかしいと感じている人が勇をふるって被害を訴えたとしても、何を訳の分からぬことを言っているのか、ちょっと頭がおかしいのではないか、と逆に反撃され押さえつけられてしまうことになる。そして、このようにストーカー行為の手段が高度化すれば、ターゲットになる個人が多数いても可能だということにもなる。
「遠山敦子の犯罪」( http://gorom8.blogspot.jp/2015/09/blog-post_4.html )
遠山敦子の犯罪の罰条に、職権濫用罪を追加する。理事長といえども、新国立劇場で公演される芸術作品の内容にまで介入する権限はないはずである。また、芸術監督3人を一時(いちどき)に交代させたことは、極めて異常な事態である。その交代の理由が、遠山敦子の主観的で個人的な単なる思い込みから導き出されたものであることを推定せざるをえない。表向きの理由は、これらの芸術監督とはコミュニケートできないということであったが、社会人であり大の大人である3人の芸術監督に対して、あまりにも愚弄した名誉を傷つけ人格をも傷つける言葉である。遠山敦子の品性・人格を疑わしめる表現である。これは、芸術に対する見方・考え方が自分と異なる芸術家に対して、遠山が理事長という職権を利用して激しい敵愾心と侮蔑の念をもって行なった弾圧である。ユング心理学に夢中になり、その信奉者になった遠山は、ユング心理学の非人間的な特徴を反映して、遠山の人格も極めて非人間的なものになってしまっている。本来的には遠山敦子は、芸術に対して侮蔑の念を抱いていると考えられる。芸術や芸術家に対して侮蔑する感情を抱いておりながら、自分を芸術家だと思い込んでしまったのは実に奇怪なことであった。芸術監督3人を交代させたことも、職権濫用罪に該当する。さらに、名誉毀損罪にも該当する。
また、器物損壊罪は親告罪である。だから僕がいくら、これは犯罪だと騒いでいても聞き届けてもらえないのである。何とかしなければいけない。
しかし、遠山敦子の犯罪の多くは、既に公訴の時効が完成していると考えられる。そこで、この時効の壁を突破するために、時効による消滅を否定する理論を構築中である。これは、もともと僕自身の被害が時効の完成によって訴える権利が消滅しているのを何とかしようとして思いついたものだった。遠山敦子の犯罪のケースにも、やや難しそうな点はあるにしても、適用は可能なのではないかと思われる。犯罪のある特殊なケースに適用しうる時効消滅消滅理論(これは面白いネーミングではあるけれども、あまり適切ではない。“時効完成否定理論”としたほうがよいかもしれない)という。理論といっても、そんなに大仰なものではなく、ちょっと見方・視点を変えただけである。それで、僕に対する犯罪事件や遠山敦子の犯罪が、まだ公訴の時効が完成していないことを立証しようというものである。僕の性格を反映してか、たいへん偏屈でひねくれた理論となっている。裁判所が認めてくれる確率は、50パーセントぐらいか。ただ、これはあらゆる犯罪事件に適用できるものではなく、一部のケースにのみ可能である。
創価学会池田名誉会長のレイプ事件にも適用可能であると考えられる。被害者の女性は事件後、はなはだしい精神的苦痛を抱えたまま生きることを強いられた。そのような精神状態のときに、告訴などということがどうして思い浮かぶだろうか。ただ生きていることが精一杯なのである。死の谷をさまよっているのである。そうして時間だけがどんどん過ぎ去っていき、はっと気がついたときには、もう時効によって消滅してしまっている。創価学会の信者の半数くらいは女性だろう。そのたくさんいる女性信者までもが、自分と同じジェンダーの被害者女性をさらに痛めつけているのが不思議でならない。創価の女性信者たちは何を考えているのだろう。ユング心理学と同じように、創価学会は自己の内なる罪の意識の息の根を止めてやろうと画策する邪教である。
ユング派の世界制覇の野望は、まず文化的宗教的な方面から達成に向けて着手される。そのプロパガンダの最前線に立っているのが、村上春樹であり宮崎駿である。僕はどうやら、このプロパガンダの旗手に抜擢されようとしたらしい。冗談ではない。誰がそんなピエロみたいなものになってやるか(「芸術暗黒時代」( http://gorom2.blogspot.jp/2015/09/blog-post_26.html ))。その次に政治的な分野に触手を伸ばすわけであるが、これももう既に行なわれている。小泉純一郎元首相や遠山敦子元文相は、ユング心理学や河合隼雄にすっかり参ってしまい惚れこんでしまった。そして、ユング派の野望の達成のための現実的な手段は、年をおうごとに洗練され高度化されているようである。それはIT技術の飛躍的発展の成果をも取り入れたものになっているようである。もう、あからさまな脅迫とか詐欺といった幼稚で拙劣な手段は用いられなくなったようである。そのために僕は、龍谷大学での詐欺・脅迫事件以降は、僕に対する虐待の証拠をあげることができなくなった。大きな組織が個人を執拗に付け狙って犯罪・違法行為さえ行っているのに、急に何の理由もなく大波が退くようにさっと手を引くことがありうるだろうか。今は、世界中どこにいても、インターネットに接続していなくても、スマートフォンで自分の位置情報を正確に把握できる時代なのである。また、そのインターネット自体は、何者かによって完全に支配されコントロールされていると感じる(「インターネットは誰かに支配されているのか」 http://moriyamag.blogspot.jp/2014/02/blog-post_12.html )
。このインターネット支配は、ごく一部のひとのWebサイトを標的にするだけで目的を達成することができる。料理のレシピや家庭園芸のサイトを操作してみたところで、なんにもならないのである。そのような人畜無害の大部分のサイトは野放しにされている。これはと思ったサイトだけを標的にすればよい、ということになる。そうすると、インターネットがおかしいと感じている人が勇をふるって被害を訴えたとしても、何を訳の分からぬことを言っているのか、ちょっと頭がおかしいのではないか、と逆に反撃され押さえつけられてしまうことになる。そして、このようにストーカー行為の手段が高度化すれば、ターゲットになる個人が多数いても可能だということにもなる。
2015年9月29日火曜日
集合的無意識なんかなかった(2)
「集合的無意識なんかなかった」( http://gorom2.blogspot.jp/2014/12/blog-post_11.html )
無意識というものがあるということを認めるにしても、フロイトまでなら許せるけれども、ユングとなると許すことができません。フロイトが提唱した無意識は、個人的無意識です。これは、人が生まれて以来、その人が経験したことが材料になっています。つまり、個人的な経験が基になっているわけです。そこで、Aさんの無意識(個人的無意識)とBさんの無意識(個人的無意識)とは、AさんとBさんとでは経験したことが違うわけですから、Aさんの無意識とBさんの無意識とは異なるはずだ、ということになります。とはいうものの、無意識の内容の全てがAさんとBさんとでは完全に違うのかというと、そうでもありません。AさんとBさんがそれぞれ経験したものの中には、非常によく似ている経験、もう同じだといっても構わないような経験もあるはずなのです。これをAさんとBさんのふたりだけに限定しないで、他の人にもおしひろげて考えてみても同じことです。そうすると、Aさん、Bさん、Cさん、Dさんのみんなに共通している無意識の内容もあるはずだということになります。もっと広げて考えると、世界中の人々に共通する無意識(個人的無意識)の内容もあるのではないか、ということになります。ユングは、この世界中の人々に共通する無意識(個人的無意識)の内容を集合的無意識(collective unconscious)の内容であると考えました。人類共通の無意識を集合的無意識と呼んだわけです。ここまでは、よろしいでしょう。誰にでも、成程と納得できそうです。ところが、ここから先が不可解になってくるのです。ユングは、集合的無意識を個人的な無意識よりも、心のさらに下層(奥深い層)にあると考えてしまったのです。これを、おかしいとは思いませんか。例えば、金などの鉱物資源を探索して掘り出すことを考えてみます。金が表層部分、つまり地面から近いところにあれば見つけやすいでしょうし、掘り出すことも比較的にた易くできるでしょう。もっと深いところに眠っていれば、見つけにくいでしょうし掘り出すことも容易ではありません。それなのにユングは、集合的無意識を、個人的な無意識よりも下の層にあると考えたのです。Aさんに特有な個人的な内容よりも、AさんにもBさんにもCさんにもDさんにも共通する内容のほうが分かりにくい、意識に上りにくいとは、いったいどういうことでしょうか。常識的に考えれば、様々な人に共通する経験の内容のほうが、捉えやすいし分かりやすいのではないでしょうか。この点が実に不可解なのです。
無意識の中には、あの人にもこの人にも共通するような部分は確かにあるでしょう。でも、この共通する部分も個人的無意識であることに変わりはないのです。何もことさら、この共通部分だけを取り上げて集合的無意識とか普遍的無意識とかいんちき臭い名前をつけて、本来の無意識とは別の層に存するのだと訳の分からない強弁をすることはないでしょう。そうして、このいかがわしい集合的無意識の中から狂信的なカルト宗教の“絶対者”(Mandala)が立ち現れてきたのであり、彼らユング派が不道徳で反社会的で非人間的になってしまったのです。
無意識というものがあるということを認めるにしても、フロイトまでなら許せるけれども、ユングとなると許すことができません。フロイトが提唱した無意識は、個人的無意識です。これは、人が生まれて以来、その人が経験したことが材料になっています。つまり、個人的な経験が基になっているわけです。そこで、Aさんの無意識(個人的無意識)とBさんの無意識(個人的無意識)とは、AさんとBさんとでは経験したことが違うわけですから、Aさんの無意識とBさんの無意識とは異なるはずだ、ということになります。とはいうものの、無意識の内容の全てがAさんとBさんとでは完全に違うのかというと、そうでもありません。AさんとBさんがそれぞれ経験したものの中には、非常によく似ている経験、もう同じだといっても構わないような経験もあるはずなのです。これをAさんとBさんのふたりだけに限定しないで、他の人にもおしひろげて考えてみても同じことです。そうすると、Aさん、Bさん、Cさん、Dさんのみんなに共通している無意識の内容もあるはずだということになります。もっと広げて考えると、世界中の人々に共通する無意識(個人的無意識)の内容もあるのではないか、ということになります。ユングは、この世界中の人々に共通する無意識(個人的無意識)の内容を集合的無意識(collective unconscious)の内容であると考えました。人類共通の無意識を集合的無意識と呼んだわけです。ここまでは、よろしいでしょう。誰にでも、成程と納得できそうです。ところが、ここから先が不可解になってくるのです。ユングは、集合的無意識を個人的な無意識よりも、心のさらに下層(奥深い層)にあると考えてしまったのです。これを、おかしいとは思いませんか。例えば、金などの鉱物資源を探索して掘り出すことを考えてみます。金が表層部分、つまり地面から近いところにあれば見つけやすいでしょうし、掘り出すことも比較的にた易くできるでしょう。もっと深いところに眠っていれば、見つけにくいでしょうし掘り出すことも容易ではありません。それなのにユングは、集合的無意識を、個人的な無意識よりも下の層にあると考えたのです。Aさんに特有な個人的な内容よりも、AさんにもBさんにもCさんにもDさんにも共通する内容のほうが分かりにくい、意識に上りにくいとは、いったいどういうことでしょうか。常識的に考えれば、様々な人に共通する経験の内容のほうが、捉えやすいし分かりやすいのではないでしょうか。この点が実に不可解なのです。
無意識の中には、あの人にもこの人にも共通するような部分は確かにあるでしょう。でも、この共通する部分も個人的無意識であることに変わりはないのです。何もことさら、この共通部分だけを取り上げて集合的無意識とか普遍的無意識とかいんちき臭い名前をつけて、本来の無意識とは別の層に存するのだと訳の分からない強弁をすることはないでしょう。そうして、このいかがわしい集合的無意識の中から狂信的なカルト宗教の“絶対者”(Mandala)が立ち現れてきたのであり、彼らユング派が不道徳で反社会的で非人間的になってしまったのです。
2015年9月27日日曜日
石田治部少輔
天下取りを目前にした徳川家康に、最後に立ちはだかったのが石田三成だった。戦国武将としての格が違う、力量に差がある、人望もはるかに及ばない、ということで三成としては無謀な感じがしないではない。しかし三成には、自分が天下人になる野望はなかったと思われる。子どもの頃に自分を見いだしてくれて、英才教育を施してくれ、そんな家柄の出ではないのに一国一城の主にまで引き上げてくれた今は亡き秀吉に、ただ報いたかっただけなのだろう。それなのに、われわれが抱いている三成の人物像というものは、あまりよくない。これは、徳川幕府がその治世の間ずっと石田三成の人格攻撃、ネガティヴキャンペーンを行なっていたからではないか。三成へのネガティヴキャンペーンについては知識の裏づけがないのであるけれども、そのために実際の三成の人物像が歪められてしまったのではないか、という気がしてしかたがない。三成という腹黒いやつが権現様に妙なことを仕掛けてきて、突っかかってきたものだから、権現様はやむなく三成を成敗して、豊臣家を滅ぼさざるをえなくなったのである、というふうに家康が豊臣家を滅亡させたことを正当化したかったのではないだろうか。
ユング心理学のユング派は、どうした訳か自分たちが信奉し拠って立つ思想を、お節介にもあらゆる人々に広めたいと考えているようである。自分たちを批判し攻撃する人は、徹底的に痛めつけようとする。また逆に、自分たちの仲間に引き入れようと懸命になることもある。このようなことを行なう過程で、彼らはかなりやばいことを仕出かしてしまうのである。まさに狂信者が、道を踏み外すのである。
僕は、彼らの狂信的な盲動のターゲットになってしまったらしい。それならば、僕は関が原の三成に倣って、やってやろう。不道徳で反社会的で非人間的なユング派の世界制覇の前に、立ちはだかってやろうではないか。僕は必ず歴史をひっくり返してやろう、という意気込みで事に当たっている。
ユング心理学のユング派は、どうした訳か自分たちが信奉し拠って立つ思想を、お節介にもあらゆる人々に広めたいと考えているようである。自分たちを批判し攻撃する人は、徹底的に痛めつけようとする。また逆に、自分たちの仲間に引き入れようと懸命になることもある。このようなことを行なう過程で、彼らはかなりやばいことを仕出かしてしまうのである。まさに狂信者が、道を踏み外すのである。
僕は、彼らの狂信的な盲動のターゲットになってしまったらしい。それならば、僕は関が原の三成に倣って、やってやろう。不道徳で反社会的で非人間的なユング派の世界制覇の前に、立ちはだかってやろうではないか。僕は必ず歴史をひっくり返してやろう、という意気込みで事に当たっている。
2015年9月26日土曜日
芸術暗黒時代
文部科学省による僕に対する虐待に、いつの間にか芸術に無縁な人々の集まりであるユング派が手を組んで加わってきた。やつらは、僕の芸術的才能に惚れこんでしまったようである。迷惑千万な話だ。それならと、僕はあえて自分の才能を眠らせる対抗措置をとった(「幻想の黒いオルフェ」 http://moriyamag.blogspot.com/2013/11/blog-post_2028.html )。村上春樹や宮崎駿のように、ユング心理学によって売れっ子になってもしようがないではないか。それこそ芸術家の恥である。幾許かの時が経てば、結局は偽物の芸術家でしかなかったことが自然に判明して人々に嘲笑されるだけだろう。
若い頃には芸術や芸術家を馬鹿にして、そんなものは飯の種にならないと眼中になかった芸術に縁のない輩が、知ったかぶりに偉そうな顔をして村上春樹がどうのこうのと御託を並べているのを見ると、その鼻をへし折ってやりたくなる。村上春樹の作品には、文学的価値はない。それなのに、売るほうは文学作品として売り、買うほうも文学作品として買っている。だから、ややこしくなってしまうのである。村上の作品は、大衆文学か通俗小説の作品であることを、明確にしておいてもらわないと困る。世の多くの人が誤解してしまうではないか。芸術には縁がないくせに、芸術が分かったような顔をする。いっぱしの芸術通を気取りだす。このような輩が多くなればなるほど、本物の芸術家は生き辛くなる。芸術家は、ただでさえ生きるのが下手なのである。それを俄か芸術通たちが、さらに危機的な状況にしてしまった。この危機的状況は、ユング派がのさばることによって、ひどくなったものである。芸術に無縁な人種の者は、偉そうに芸術をあげつらうな。
今、ユング派を叩き潰し、文部科学省をねじ伏せたら、やっと僕は作曲家になるための精進を開始することができる。この年になって、やっとだ。それまでは、才能をいばら姫のように眠らせておかなければならない。精進を始めたからといって、すぐに作曲家になれるわけではない。民謡(民謡は音楽性の宝庫である)やバロック音楽などを究めなければならないのである。生きているうちに達成できるだろうか。
若い頃には芸術や芸術家を馬鹿にして、そんなものは飯の種にならないと眼中になかった芸術に縁のない輩が、知ったかぶりに偉そうな顔をして村上春樹がどうのこうのと御託を並べているのを見ると、その鼻をへし折ってやりたくなる。村上春樹の作品には、文学的価値はない。それなのに、売るほうは文学作品として売り、買うほうも文学作品として買っている。だから、ややこしくなってしまうのである。村上の作品は、大衆文学か通俗小説の作品であることを、明確にしておいてもらわないと困る。世の多くの人が誤解してしまうではないか。芸術には縁がないくせに、芸術が分かったような顔をする。いっぱしの芸術通を気取りだす。このような輩が多くなればなるほど、本物の芸術家は生き辛くなる。芸術家は、ただでさえ生きるのが下手なのである。それを俄か芸術通たちが、さらに危機的な状況にしてしまった。この危機的状況は、ユング派がのさばることによって、ひどくなったものである。芸術に無縁な人種の者は、偉そうに芸術をあげつらうな。
今、ユング派を叩き潰し、文部科学省をねじ伏せたら、やっと僕は作曲家になるための精進を開始することができる。この年になって、やっとだ。それまでは、才能をいばら姫のように眠らせておかなければならない。精進を始めたからといって、すぐに作曲家になれるわけではない。民謡(民謡は音楽性の宝庫である)やバロック音楽などを究めなければならないのである。生きているうちに達成できるだろうか。
大学教授になりたかった
僕は大学教授になりたかった。芸術家になる道は、芸術には無縁の人種であるくせにある日突然、奇妙な妄想体系にとり憑かれて自分を芸術家だと思い込んでしまったユング派の連中によって閉ざされている。それならば、その次になりたいのは何かと考えたら、大学教授だった。どうせ無能教授にしかなれないだろうが。しかし、大学教授になったとしても、三箇月さえもつかどうか分からない。無能教授の古狸のところに日参しなければならないのである。そして、心にもないお世辞を言わなければならない。これは、とても耐えられないと思った。
しかも、大学の監督機関は文部科学省ではないか。これでは敵地に単身、乗りこんでいくようなものである。集中砲火を浴びて、あっさりとお陀仏になってしまう。
しかも、大学の監督機関は文部科学省ではないか。これでは敵地に単身、乗りこんでいくようなものである。集中砲火を浴びて、あっさりとお陀仏になってしまう。
2015年9月23日水曜日
ステーションPARTⅢ
(これは、「ステーションPARTⅡ」 http://moriyamag.blogspot.jp/2013/10/part.html の続編です。)
河合隼雄―駅長さん、駅長さん。いやあ、久しぶりですなあ。
駅長―おや、これはどなたかと思ったら、地獄風呂の詐欺師さんではありませんか。
河合―相変わらず口が悪いなあ。駅長さんは。
駅長―それで今日は、どのようなご用事で?
河合―いえね。大した用事もないんですわ。ただね、新聞を見ていますとな。ちょっと駅長さんの顔を見て話したくなりましてな。
駅長―おや、地獄にも新聞がありますか。
河合―そりゃ勿論ありますとも。ただしね、新聞を読めるのは、わしのようなエリートだけに限られているんですわ。他の愚民どもは、読むことできまへん。だいたい、あんたはん、愚民というものはですな、読んでて読んでない、見ていて見ていない者どもですからな。
駅長―ふーむ。なかなか含蓄のあるお言葉ですな。
河合―それでですな。わしは今朝、新聞を読んでおったんですわい。するとな、フォルクスワーゲンの排ガス規制逃れの記事が目につきましてな。駅長さん、あんたこの記事をどう読まはりますか。
駅長―ええ?わたしにコメントせよと?そのような難しいことは、よく・・・・。
河合―ヘッヘッへ。そうでっか。アメリカの謀略だとか、ドイツを痛めつける罠だったとか、日本でなくてほっとしたとかというような見方をされるでしょう?
駅長―あ、いや、わたしはそこまで考えたことはありませんよ。
河合―いやいや、ふつうエリートというものは、そういうことまで考察するもんですわい。
駅長―そうですかあ。それなら、ひとつわたしもエリートさんたちにあやかって、そのように考えたことにしましょう。
河合―それでは、駅長さん。そう考えましたか。
駅長―はい、そのように考えましたです。
河合―駅長さん、そこが素人の浅ましさ。
駅長―何ですか。これではまるで詐欺ではありませんか。
河合―わしはね、詐欺も得意なんですわい。
駅長―参ったなあ。
河合―そこでですな。フォルクスワーゲンの事件を眺めるにあたっては、そのような知性のない、底の浅い見方をしてはいかんということです。もっと深い洞察力をもって物事を見つめなければ駄目だということです。
駅長―ほほう、洞察力ですか。成程、成程。
河合―そもそも、この世界をしょって立つエリートというものはですな、物事の本質を見極める深い洞察力と先の先を読む先見の明をもって、この世界に生起する一切の出来事の本来の意味を解き明かさないといけません。
駅長―そんなもんでしょうかねえ。
河合―そんなもんですとも。
駅長―それで?フォルクスワーゲンの事件に潜んでいる真実とは?
河合―よろしい。わしが解き明かしてみせましょう。フォルクスワーゲンの排ガス規制逃れはですな、人類の歴史に類例を見ない、いまだかつて人類が嗅いだことのない巨大で強力な屁ですわい。
駅長―ええっ?屁ですか?
河合―そうですとも、そうですとも。よく考えて御覧なさい。世界中の人々の鼻がひん曲がっておるのですぞ。このような、すさまじい屁をこいたやつは、人類の歴史に今まで現れたことはありません。
駅長―そうですな。おっしゃるとおりです。
河合―人は常に、外界で生起している事象を、曇りのない目で正確に見通さなければいけません。その際にですな、内界にばかり気をとられていては物事の本質は見えてこないのじゃ。そんな次元の低いことでは駄目なのじゃ。
駅長―はい、肝に銘じておきます。
河合―たとえば、ユング心理学などというものがあるな。あれは、自己の内界だけに気をとられているから、外的事象の本質が全然見えておらんのだ。外界から遮断されてしまっているのと同じだ。人間的な成熟とか精神的成長とかいうものを、自己の内界だけから達成されると考えている。愚かなことだ。人はいつも、外界の世界の事象を、透徹した目で見なければならんのだ。内界に捉われすぎると、外界が見えなくなる。見えているかにみえても、それは外界に内界を投影しているにすぎないのだ。その内界なるものは、ただの妄想体系にすぎない。それは、自我の死を意味することさえある。犯罪者というものは、えてして、このようなやつらがなるものだ。必然的に反社会的になるのである。どうだ、学生君。ちゃんとノートをとったかね。
駅長―あっ、いえ、ノートと鉛筆は駅長室に忘れてきました。
河合―しょうがないなあ。まあ仕方がない。本日の講義はここまで。
駅長―はい、河合教授、どうもありがとうございました。ところで、お客さん。以前に比べると、人が変わったように見受けられますが、いかがなされた。
河合―うーむ、そうじゃのう。
駅長―地獄で洗脳でもされましたか。
河合―うーむ。わしには、よう分からん。そんな難しいことは。
河合隼雄―駅長さん、駅長さん。いやあ、久しぶりですなあ。
駅長―おや、これはどなたかと思ったら、地獄風呂の詐欺師さんではありませんか。
河合―相変わらず口が悪いなあ。駅長さんは。
駅長―それで今日は、どのようなご用事で?
河合―いえね。大した用事もないんですわ。ただね、新聞を見ていますとな。ちょっと駅長さんの顔を見て話したくなりましてな。
駅長―おや、地獄にも新聞がありますか。
河合―そりゃ勿論ありますとも。ただしね、新聞を読めるのは、わしのようなエリートだけに限られているんですわ。他の愚民どもは、読むことできまへん。だいたい、あんたはん、愚民というものはですな、読んでて読んでない、見ていて見ていない者どもですからな。
駅長―ふーむ。なかなか含蓄のあるお言葉ですな。
河合―それでですな。わしは今朝、新聞を読んでおったんですわい。するとな、フォルクスワーゲンの排ガス規制逃れの記事が目につきましてな。駅長さん、あんたこの記事をどう読まはりますか。
駅長―ええ?わたしにコメントせよと?そのような難しいことは、よく・・・・。
河合―ヘッヘッへ。そうでっか。アメリカの謀略だとか、ドイツを痛めつける罠だったとか、日本でなくてほっとしたとかというような見方をされるでしょう?
駅長―あ、いや、わたしはそこまで考えたことはありませんよ。
河合―いやいや、ふつうエリートというものは、そういうことまで考察するもんですわい。
駅長―そうですかあ。それなら、ひとつわたしもエリートさんたちにあやかって、そのように考えたことにしましょう。
河合―それでは、駅長さん。そう考えましたか。
駅長―はい、そのように考えましたです。
河合―駅長さん、そこが素人の浅ましさ。
駅長―何ですか。これではまるで詐欺ではありませんか。
河合―わしはね、詐欺も得意なんですわい。
駅長―参ったなあ。
河合―そこでですな。フォルクスワーゲンの事件を眺めるにあたっては、そのような知性のない、底の浅い見方をしてはいかんということです。もっと深い洞察力をもって物事を見つめなければ駄目だということです。
駅長―ほほう、洞察力ですか。成程、成程。
河合―そもそも、この世界をしょって立つエリートというものはですな、物事の本質を見極める深い洞察力と先の先を読む先見の明をもって、この世界に生起する一切の出来事の本来の意味を解き明かさないといけません。
駅長―そんなもんでしょうかねえ。
河合―そんなもんですとも。
駅長―それで?フォルクスワーゲンの事件に潜んでいる真実とは?
河合―よろしい。わしが解き明かしてみせましょう。フォルクスワーゲンの排ガス規制逃れはですな、人類の歴史に類例を見ない、いまだかつて人類が嗅いだことのない巨大で強力な屁ですわい。
駅長―ええっ?屁ですか?
河合―そうですとも、そうですとも。よく考えて御覧なさい。世界中の人々の鼻がひん曲がっておるのですぞ。このような、すさまじい屁をこいたやつは、人類の歴史に今まで現れたことはありません。
駅長―そうですな。おっしゃるとおりです。
河合―人は常に、外界で生起している事象を、曇りのない目で正確に見通さなければいけません。その際にですな、内界にばかり気をとられていては物事の本質は見えてこないのじゃ。そんな次元の低いことでは駄目なのじゃ。
駅長―はい、肝に銘じておきます。
河合―たとえば、ユング心理学などというものがあるな。あれは、自己の内界だけに気をとられているから、外的事象の本質が全然見えておらんのだ。外界から遮断されてしまっているのと同じだ。人間的な成熟とか精神的成長とかいうものを、自己の内界だけから達成されると考えている。愚かなことだ。人はいつも、外界の世界の事象を、透徹した目で見なければならんのだ。内界に捉われすぎると、外界が見えなくなる。見えているかにみえても、それは外界に内界を投影しているにすぎないのだ。その内界なるものは、ただの妄想体系にすぎない。それは、自我の死を意味することさえある。犯罪者というものは、えてして、このようなやつらがなるものだ。必然的に反社会的になるのである。どうだ、学生君。ちゃんとノートをとったかね。
駅長―あっ、いえ、ノートと鉛筆は駅長室に忘れてきました。
河合―しょうがないなあ。まあ仕方がない。本日の講義はここまで。
駅長―はい、河合教授、どうもありがとうございました。ところで、お客さん。以前に比べると、人が変わったように見受けられますが、いかがなされた。
河合―うーむ、そうじゃのう。
駅長―地獄で洗脳でもされましたか。
河合―うーむ。わしには、よう分からん。そんな難しいことは。
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