「アニマは女性像ではない」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post.html )
アニマは女性像ではないPARTⅢ
僕は文部科学省によって30年以上、途中から文部科学省と手を組んで加わってきたユング派によって20年以上の長きに亘って、犯罪行為をまじえた虐待を受けてきた。監視のような付き纏いも、同時に行なわれていた。文部科学省による虐待のきっかけになったのは、僕に対する重大な誤解である。僕の行為の意味を取り違えたのである。文部科学省がユング派の河合隼雄を中教審の委員や文化庁長官に任命したり、河合に小中学生全員に配布される道徳の副教材「心のノート」を作成させたりと破格の待遇で重用していたことからも分かるように、文部科学省はユング心理学を恰も国教のように扱い優遇しているのである。文部科学省内で、これの主導的中心的役割を果たしたのが、遠山敦子であるようだ。そうすると、文部科学省による僕に対する虐待で主導的中心的な役割を担っていたのも、やはり遠山敦子ではないかと考えるのも自然であろう。
このユング派の虐待、しつこい付き纏いで、どうしても分からないのが乞食女のことである(「アニマは女性像ではない」 http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post.html )。二十年ばかりもの間、ずっとしつこく乞食女と結婚させようとしているのである。乞食女と出会ったこと自体に極めて不自然なところがあったので、ユング派が何か仕掛けをしていたのではないかと思う。まるで偏執狂の変質者の遣り手婆みたいなのである。乞食女に“女”を感じてはいない。だから、愛の対象にはなりえない。それなのに、ユング派が乞食女に拘泥するのは何故なのだろう。いくら考えても分かるはずがない。そこで、ありうる可能性として、ユング心理学のアニマ(anima)の元型が何らかの関係をもっているのではないかと推定する。
僕はアニマと関わりをもったことは一度もない。そもそも集合的無意識などというめちゃくちゃな概念を認めていないのだから(「集合的無意識なんかなかった」 http://gorom2.blogspot.my/2014/12/blog-post_11.html 、「集合的無意識なんかなかった(2)」 http://gorom2.blogspot.my/2015/09/blog-post_29.html )、そこの住人であるアニマの存在を認めないのも当然である。だから、ここで何らかの関与を行なっているのではないかと推定されるアニマとは、あくまでもユング派の心の中に“存在する”と仮定されるアニマのことである。なんという途方もない素っ頓狂な馬鹿みたいな話ではないか、と誰もがすぐに気がつくだろう。しかし、ユング派は、このように気違いじみているのである。とても相手になんかしたくないやつらだが、向こうからストーカーのように長い年月、付き纏っているので、我慢して馬鹿みたいなことも書かなければならない。アニマは(あるとすれば)前にも書いたとおり、一般的普遍的集合的な領域に属するものである。このような領域に属する“女性らしきもの”、“女性みたいなもの”は、愛の対象にはなりえない。“女”を感じないからである。アニマを投影した女性も、愛の対象にはなりえないのである。これを無理やり愛の対象にしてしまったら、精神的な危機に陥るだろう。“PARTⅡ”で書いたように、ユンギアンやユング心理学に傾倒している連中が精神異常者ばかりだということの理由がお分かりだろう。
僕が長い間ユング派に付き纏われ虐待されていることの理由と原因について、次のように断じざるをえない。愛も知らない、恋もしたことのない河合隼雄(死去。息子の河合俊雄が引き継いだと考えられる)、氏原寛、酒井汀、小島勝、小島勝の夫人、大取一馬、遠山敦子の同性愛的衝動の現れである。
(PARTⅣにつづく)
「アニマは女性像ではないPARTⅣ」
( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part_13.html )
2016年1月12日火曜日
2016年1月9日土曜日
アニマは女性像ではないPARTⅡ
最初の青いフォントの箇所は、「アニマは女性像ではない」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post.html )に書き加えた記述を、ここに転用したものである。
C・G・ユングがいやらしいのは、愛を知らない、愛を経験したことが一度もないくせに、あたかも自分が愛を知っているかのような顔をしていたであろうからである。これに多くの人が騙されたにちがいない。ユングは、この人々の重大な誤解と自分自身の自分に対する誤解の両方を最大限に利用して、現実行動をしていたのである。これは、限りなく偽善者に近い。だから、ユングのいやらしい悪臭には、鼻を覆うばかりである。毎日毎日、薄暗い部屋に終日ひとりこもり、壁に向かって何やら訳の分からないことを、ぶつぶつ呟いている。コミュニケーションと遮断された世界に、こもりきりになる。こうして達成された“個性化”(C・G・ユングの個性化)なるものによって、人間の精神が健全になるわけがなかろう。愛を経験する基盤も能力も、みずから手放しているのである。人を愛する能力がまったくないくせに、あたかも自分はその能力を有していると装いながら、女弟子に近づき不倫関係になった。これをもって、いやらしい下司野郎と言わずして、何と言えばよいのか。元来、ユングという人物は現実的実際的行動、いわば世俗的な行動を起こす資格すら有してはいないのである。世の中の普通の当たり前の平凡な人々が感じるであろう、ささやかな幸せを感じてはいけないのである。そのようなささやかな幸せは、ユングの分にすぎる。浦島太郎は、龍宮城でもらい受けたものを利用して現世で生きていくことはできない。とにかくユングやその後継者達は、社会に出て行って一旗上げてやろうなどと、大それたことを考えてくれるな。これでは、人間の社会が、人間の精神が、世界そのものが凋落するのである。人類は、滅びへの道をまっしぐらに突き進むことになってしまう。
ユング派が考えている“愛の生活”なるものを推察してみよう。男性の側から見たものである。何らかの仕方で、男は女性にアニマを関わらせている。アニマは女性像ではないのだから、すなわちアニマには愛の対象となりうる女性性がないのだから、すなわちアニマには“女”を感じえないのだから、そこに愛は不在である。ならば、これはどんな関係なのか。ひとつ屋根の下に、男同士または女同士が一緒に住み、ある目的(この目的自体、大したものでないこと言うまでもない)に向かってともに戦い、歩いていこうと同盟を結んで共同生活をしているようなものである。つまり、これは友情なのである。友情と愛とは全くの別物なのであって、わざわざこんなことを殊更あげつらうことのほうが馬鹿げている。ユング心理学のアニマという概念について、ロマンチックな幻想を抱く人があるとすれば、心理学的に危ういとみなければならないのではなかろうか。
C・G・ユングは、自分の結婚生活が友情を基盤にして成り立っていたのを誤解して、これを愛の生活であると勘違いしていたであろうが、これでは当然、欲求不満になってくる。それで女弟子と関係をもったのである。ユングの後継者達、日本の後継者達も、同じように欲求不満になっているのだろう。しかし彼らが教祖と同様に、不倫しているかどうかは知りようがない。氏原寛は、自分がカウンセリングを受けていることを著書で公言するほどの精神異常者なのだから(「悪魔を元いたところに戻せ」 http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post_2.html )、そのうちに自分の著書で何か書いて、臆面もなく公言してくれるかもしれない。龍谷大学の小島勝教授は、厳密にはユンギアンではないが、大学の“授業”中に何か言ってくれるかもしれない。あたしってさ、二度も結婚したのに女房に愛を感じたこと一度もないのよ。困ったわね。どうしたらいいかしら。あら、どうしたのでしょう。オホホホホ。あたし、いつの間にオカマになったのかしら。遠山敦子もユンギアンではないが、とっくの昔にオカマになっている。ちょっと待ってくれ。遠山敦子は女だぞ、あれでも。オカマの女性版は、何というのかな。オヤカン?オナベ?オシャモジ?オ炊飯器?まあ、どうでもいいや。元文部科学大臣遠山敦子は、旦那に“男”を見いだせないで、それならば自分が男になってやろうと、出世街道をひた走りに走り続けていたのだろうか。そして、新国立劇場理事長になったとき、暴君になって、何人もの芸術家を斬って捨てた。女傑のオ出刃包丁である。
オカマやオカマの女性版どころか、愛のないユンギアンの欲求不満が高じると、もっと恐ろしいことをしでかしてしまう。他人の愛に、ちょっかいを出しだすのである。人の愛を妨害し、潰そうとする。A君とB子さんが恋仲だと知れば、B子さんがA君を誤解するような重大な出来事を出来させる。こうして、ふたりの仲を引き裂き、B子さんがC君を好きになるような仕掛けを行なう。こうしてユンギアンは、人の愛を邪魔だてすることによって、自身の愛の欠如による欲求不満を解消しようとする。恋愛なんか、しないほうが心の安定が図れるぞ、という御旗のもとに。自分が恋愛した経験がないものだから、このような御旗を考案したのである。特に芸術家を中心に、このような介入が広範囲に亘って行なわれているようである。音楽ならば、クラシック音楽やポピュラーミュージックなどの作曲家や演奏家や歌手などである。それから、画家や彫刻家などの美術家や文学者等である。そして、このような人間活動に関する介入は、何も恋愛だけに限ったことではないが、文化全般に及んでいき、政治や経済やスポーツなど様々な分野でも行なわれるようになった。その動機は、ユング心理学の優秀性を証明し、世界中の人々がユング心理学に敬服し心酔し、心理学や精神医学をユング心理学が完全支配し、ユング派が世界を支配しコントロールするためである。この人間活動全般に対する介入を可能にしたのが、ITなどの科学技術の飛躍的発展である。
僕は文部科学省によって30年以上、途中から文部科学省と手を組んで加わってきたユング派によって20年以上の長きに亘って、犯罪行為をまじえた虐待を受けてきた。
(PARTⅢにつづく)
「アニマは女性像ではないPARTⅢ」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part_12.html )
C・G・ユングがいやらしいのは、愛を知らない、愛を経験したことが一度もないくせに、あたかも自分が愛を知っているかのような顔をしていたであろうからである。これに多くの人が騙されたにちがいない。ユングは、この人々の重大な誤解と自分自身の自分に対する誤解の両方を最大限に利用して、現実行動をしていたのである。これは、限りなく偽善者に近い。だから、ユングのいやらしい悪臭には、鼻を覆うばかりである。毎日毎日、薄暗い部屋に終日ひとりこもり、壁に向かって何やら訳の分からないことを、ぶつぶつ呟いている。コミュニケーションと遮断された世界に、こもりきりになる。こうして達成された“個性化”(C・G・ユングの個性化)なるものによって、人間の精神が健全になるわけがなかろう。愛を経験する基盤も能力も、みずから手放しているのである。人を愛する能力がまったくないくせに、あたかも自分はその能力を有していると装いながら、女弟子に近づき不倫関係になった。これをもって、いやらしい下司野郎と言わずして、何と言えばよいのか。元来、ユングという人物は現実的実際的行動、いわば世俗的な行動を起こす資格すら有してはいないのである。世の中の普通の当たり前の平凡な人々が感じるであろう、ささやかな幸せを感じてはいけないのである。そのようなささやかな幸せは、ユングの分にすぎる。浦島太郎は、龍宮城でもらい受けたものを利用して現世で生きていくことはできない。とにかくユングやその後継者達は、社会に出て行って一旗上げてやろうなどと、大それたことを考えてくれるな。これでは、人間の社会が、人間の精神が、世界そのものが凋落するのである。人類は、滅びへの道をまっしぐらに突き進むことになってしまう。
ユング派が考えている“愛の生活”なるものを推察してみよう。男性の側から見たものである。何らかの仕方で、男は女性にアニマを関わらせている。アニマは女性像ではないのだから、すなわちアニマには愛の対象となりうる女性性がないのだから、すなわちアニマには“女”を感じえないのだから、そこに愛は不在である。ならば、これはどんな関係なのか。ひとつ屋根の下に、男同士または女同士が一緒に住み、ある目的(この目的自体、大したものでないこと言うまでもない)に向かってともに戦い、歩いていこうと同盟を結んで共同生活をしているようなものである。つまり、これは友情なのである。友情と愛とは全くの別物なのであって、わざわざこんなことを殊更あげつらうことのほうが馬鹿げている。ユング心理学のアニマという概念について、ロマンチックな幻想を抱く人があるとすれば、心理学的に危ういとみなければならないのではなかろうか。
C・G・ユングは、自分の結婚生活が友情を基盤にして成り立っていたのを誤解して、これを愛の生活であると勘違いしていたであろうが、これでは当然、欲求不満になってくる。それで女弟子と関係をもったのである。ユングの後継者達、日本の後継者達も、同じように欲求不満になっているのだろう。しかし彼らが教祖と同様に、不倫しているかどうかは知りようがない。氏原寛は、自分がカウンセリングを受けていることを著書で公言するほどの精神異常者なのだから(「悪魔を元いたところに戻せ」 http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post_2.html )、そのうちに自分の著書で何か書いて、臆面もなく公言してくれるかもしれない。龍谷大学の小島勝教授は、厳密にはユンギアンではないが、大学の“授業”中に何か言ってくれるかもしれない。あたしってさ、二度も結婚したのに女房に愛を感じたこと一度もないのよ。困ったわね。どうしたらいいかしら。あら、どうしたのでしょう。オホホホホ。あたし、いつの間にオカマになったのかしら。遠山敦子もユンギアンではないが、とっくの昔にオカマになっている。ちょっと待ってくれ。遠山敦子は女だぞ、あれでも。オカマの女性版は、何というのかな。オヤカン?オナベ?オシャモジ?オ炊飯器?まあ、どうでもいいや。元文部科学大臣遠山敦子は、旦那に“男”を見いだせないで、それならば自分が男になってやろうと、出世街道をひた走りに走り続けていたのだろうか。そして、新国立劇場理事長になったとき、暴君になって、何人もの芸術家を斬って捨てた。女傑のオ出刃包丁である。
オカマやオカマの女性版どころか、愛のないユンギアンの欲求不満が高じると、もっと恐ろしいことをしでかしてしまう。他人の愛に、ちょっかいを出しだすのである。人の愛を妨害し、潰そうとする。A君とB子さんが恋仲だと知れば、B子さんがA君を誤解するような重大な出来事を出来させる。こうして、ふたりの仲を引き裂き、B子さんがC君を好きになるような仕掛けを行なう。こうしてユンギアンは、人の愛を邪魔だてすることによって、自身の愛の欠如による欲求不満を解消しようとする。恋愛なんか、しないほうが心の安定が図れるぞ、という御旗のもとに。自分が恋愛した経験がないものだから、このような御旗を考案したのである。特に芸術家を中心に、このような介入が広範囲に亘って行なわれているようである。音楽ならば、クラシック音楽やポピュラーミュージックなどの作曲家や演奏家や歌手などである。それから、画家や彫刻家などの美術家や文学者等である。そして、このような人間活動に関する介入は、何も恋愛だけに限ったことではないが、文化全般に及んでいき、政治や経済やスポーツなど様々な分野でも行なわれるようになった。その動機は、ユング心理学の優秀性を証明し、世界中の人々がユング心理学に敬服し心酔し、心理学や精神医学をユング心理学が完全支配し、ユング派が世界を支配しコントロールするためである。この人間活動全般に対する介入を可能にしたのが、ITなどの科学技術の飛躍的発展である。
僕は文部科学省によって30年以上、途中から文部科学省と手を組んで加わってきたユング派によって20年以上の長きに亘って、犯罪行為をまじえた虐待を受けてきた。
(PARTⅢにつづく)
「アニマは女性像ではないPARTⅢ」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part_12.html )
「こころの未来」という言葉の恐ろしさ
最初の青いフォントの箇所は、「アニマは女性像ではない」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post.html )に書き加えた記述を、ここに転用したものである。
「こころの未来」とは何事か。これは河合俊雄が設立したのであろう京都大学の研究機関の名称である。人間精神を改変してやろうというのか。人間の心が変容するのは、成長とか成熟とかと呼ばれているものである。悪い意味では、堕落という言葉が相当するか。堕落は、一気にやってくる可能性がないでもないが、成長や成熟は、かたつむりの歩みのように遅々とした歩みであり、動いているのか変化しているのかどうか、見た目には分からないものである。河合俊雄の「こころの未来」とは、ユングの「精神の拡張」を念頭においているのだろう。人間の「精神の拡張」とは、風船にいっぱいに入れている中の空気だけを一気に高温にして膨張させるようなものである。風船は、当然破裂するだろう。人間の「精神の拡張」とは、人間世界から飛び立ち、はるかかなたの世界へ飛び去っていくことである。つまり、人間ではなくなることである。河合俊雄も親父の後をついで、河合隼雄そっくりの大馬鹿者だ。親父のように氷のように冷たく恐ろしいのだろう。
河合俊雄は人間であることが厭なようである。現在の自分の心に満足していない。現在の自分の心を消し去りたい、抹殺したいと考えているようである。それなら、さっさと自分で死を選んで自分の首を絞めてしまえ。お前なんかが死んでも誰も悲しみやしない。社会の害虫が、一匹いなくなったと喜ばれるだろう。
「こころの未来」とは何事か。これは河合俊雄が設立したのであろう京都大学の研究機関の名称である。人間精神を改変してやろうというのか。人間の心が変容するのは、成長とか成熟とかと呼ばれているものである。悪い意味では、堕落という言葉が相当するか。堕落は、一気にやってくる可能性がないでもないが、成長や成熟は、かたつむりの歩みのように遅々とした歩みであり、動いているのか変化しているのかどうか、見た目には分からないものである。河合俊雄の「こころの未来」とは、ユングの「精神の拡張」を念頭においているのだろう。人間の「精神の拡張」とは、風船にいっぱいに入れている中の空気だけを一気に高温にして膨張させるようなものである。風船は、当然破裂するだろう。人間の「精神の拡張」とは、人間世界から飛び立ち、はるかかなたの世界へ飛び去っていくことである。つまり、人間ではなくなることである。河合俊雄も親父の後をついで、河合隼雄そっくりの大馬鹿者だ。親父のように氷のように冷たく恐ろしいのだろう。
河合俊雄は人間であることが厭なようである。現在の自分の心に満足していない。現在の自分の心を消し去りたい、抹殺したいと考えているようである。それなら、さっさと自分で死を選んで自分の首を絞めてしまえ。お前なんかが死んでも誰も悲しみやしない。社会の害虫が、一匹いなくなったと喜ばれるだろう。
2016年1月8日金曜日
「アニマは女性像ではない」の書き加え
「アニマは女性像ではない」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post.html )に何箇所か書き加えがあります。最新の書き足しは、終わりのほうの黒の背景に白抜きの文字の箇所。
2016年1月2日土曜日
悪魔を元いたところに戻せ
ユング心理学に傾倒して、その“個性化”を果たして強い人間になり邪悪で恐ろしくなるよりは、このまま弱い人間のまま一生を終えたほうがよい。
ユング心理学の個性化の過程において、まず影(shadow。内なる悪)の元型が自我に取り込まれる。これは、自分の中には悪い面があるなあ、ということを認めること以上の次元のことである。自我が悪を同化(assimilation)してしまうのである。ヤクザやマフィアに自己同一化するのと同じである。そうして始まった個性化の過程の最終局面において獲得される安寧の境地が悪魔の境地になることは、分かりきったことではないか。このようなやつらを社会に置いておくわけにはいかないのである。
真理は控えめで謙虚なものである。押しつけがましくなって人に強制しようとするとき、真理と考えられていたものは、真理なんかでなかったことが証明される。
悪魔に至る道であるユング心理学の個性化の過程では、結局は人間性を失い、また異常心理になる。河合隼雄は、二度のウソツキ退職(詐欺犯罪)を行い、子どもの心理検査の非人間的な取り扱いを批判されると、怒って日本臨床心理学会を飛び出して心理臨床学会という変な名称の学会を設立した。心理臨床という用語は、日本語としておかしい。このように河合は、非人間的で反社会的である。河合の行動は、正常でまともな人間の行動ではないことは、誰の目にも明らかだろう。氏原寛は自分の著書の中で、自分がカウンセリングを受けていることを公言している(書名は忘れた)。このカウンセリングは、教育分析とかスーパービジョンとかと呼ばれているものではない。自分がカウンセリングを受けているとすれば、それを人には話したくないと考えるのが、当たり前でまともで正常である。氏原のように、自ら進んで人に話し、しかも著書で公言するのは異常である。氏原は、精神異常者である。氏原はまた、読むに耐えないひどい文章、小中学生の作文かと思われるような文章しか書けないくせに、やはり著書で作家になりたいと公言しているのも異常心理の表れである(氏原寛著『カウンセリングの枠組み』ミネルヴァ書房刊)。遠山敦子が新国立劇場の理事長であったときに、芸術的天分も何もないくせに自分を芸術家だと思い込んで思い上がり、何人もの芸術家の首を絞めるようなことを行ったのも、異常心理である。僕に対して詐欺を行なった龍谷大学文学部の小島勝教授は、普通の人ならば話したがらない自分のプライバシーに属することを、大勢の人の前で堂々と臆面もなく話していた。当然ながら、これも精神異常である。ユング心理学とは、このように非人間的な精神異常者を作り出す心理学であるとも言えよう。
遠山敦子は、悪魔を日本の野に放ったのだから、再び悪魔をとっ捕まえて檻の中に幽閉せよ。それが遠山の義務だ。わたしの知ったことではないなどと、無責任なことを言うな。悪魔を野放しにした者が、悪魔をもといたところに戻す。これは当然だろう。この悪魔どもは、陰でコソコソとどのような悪事を働いているか、分かったものではない。遠山が、新国立劇場の理事長であったときに、したようなことだ。芸術的文学的天分も素養もセンスもないくせに、奇矯な妄想体系にとりつかれて、ある日突然、自分を芸術家だと思い込んで、気に食わない何人もの芸術家にすさまじい弾圧を加え、その首を絞めるようなことをしたことだ。だいたい遠山の文章は、そのブログを読めば分かるように、役人の文章以外の何ものでもないではないか。いったい、どこに文学的芸術的天分が認められるのか。文学や芸術とは無縁の人種だ。恥ずかしくないのか。この厚顔鉄面皮ババア。ユング心理学という妄想体系にとりつかれて、ただの犯罪者になってしまったではないか。ユング派は、遠山のような悪事を陰でコソコソとどれだけやっているか分からないのである。狂人どもに、権力の一端を譲り渡すという愚行をなしたからだ。狂った悪魔どもから、分け与えてしまった権力の一部を取り返して、再び悪魔を檻に閉じ込めよ。ぐずぐずするな。お前がぐずぐずと先延ばしにすれば、悪魔に見込まれた人々の苦しみは深くなり、社会が荒廃するだけだ。
ユング心理学の個性化の過程において、まず影(shadow。内なる悪)の元型が自我に取り込まれる。これは、自分の中には悪い面があるなあ、ということを認めること以上の次元のことである。自我が悪を同化(assimilation)してしまうのである。ヤクザやマフィアに自己同一化するのと同じである。そうして始まった個性化の過程の最終局面において獲得される安寧の境地が悪魔の境地になることは、分かりきったことではないか。このようなやつらを社会に置いておくわけにはいかないのである。
真理は控えめで謙虚なものである。押しつけがましくなって人に強制しようとするとき、真理と考えられていたものは、真理なんかでなかったことが証明される。
悪魔に至る道であるユング心理学の個性化の過程では、結局は人間性を失い、また異常心理になる。河合隼雄は、二度のウソツキ退職(詐欺犯罪)を行い、子どもの心理検査の非人間的な取り扱いを批判されると、怒って日本臨床心理学会を飛び出して心理臨床学会という変な名称の学会を設立した。心理臨床という用語は、日本語としておかしい。このように河合は、非人間的で反社会的である。河合の行動は、正常でまともな人間の行動ではないことは、誰の目にも明らかだろう。氏原寛は自分の著書の中で、自分がカウンセリングを受けていることを公言している(書名は忘れた)。このカウンセリングは、教育分析とかスーパービジョンとかと呼ばれているものではない。自分がカウンセリングを受けているとすれば、それを人には話したくないと考えるのが、当たり前でまともで正常である。氏原のように、自ら進んで人に話し、しかも著書で公言するのは異常である。氏原は、精神異常者である。氏原はまた、読むに耐えないひどい文章、小中学生の作文かと思われるような文章しか書けないくせに、やはり著書で作家になりたいと公言しているのも異常心理の表れである(氏原寛著『カウンセリングの枠組み』ミネルヴァ書房刊)。遠山敦子が新国立劇場の理事長であったときに、芸術的天分も何もないくせに自分を芸術家だと思い込んで思い上がり、何人もの芸術家の首を絞めるようなことを行ったのも、異常心理である。僕に対して詐欺を行なった龍谷大学文学部の小島勝教授は、普通の人ならば話したがらない自分のプライバシーに属することを、大勢の人の前で堂々と臆面もなく話していた。当然ながら、これも精神異常である。ユング心理学とは、このように非人間的な精神異常者を作り出す心理学であるとも言えよう。
遠山敦子は、悪魔を日本の野に放ったのだから、再び悪魔をとっ捕まえて檻の中に幽閉せよ。それが遠山の義務だ。わたしの知ったことではないなどと、無責任なことを言うな。悪魔を野放しにした者が、悪魔をもといたところに戻す。これは当然だろう。この悪魔どもは、陰でコソコソとどのような悪事を働いているか、分かったものではない。遠山が、新国立劇場の理事長であったときに、したようなことだ。芸術的文学的天分も素養もセンスもないくせに、奇矯な妄想体系にとりつかれて、ある日突然、自分を芸術家だと思い込んで、気に食わない何人もの芸術家にすさまじい弾圧を加え、その首を絞めるようなことをしたことだ。だいたい遠山の文章は、そのブログを読めば分かるように、役人の文章以外の何ものでもないではないか。いったい、どこに文学的芸術的天分が認められるのか。文学や芸術とは無縁の人種だ。恥ずかしくないのか。この厚顔鉄面皮ババア。ユング心理学という妄想体系にとりつかれて、ただの犯罪者になってしまったではないか。ユング派は、遠山のような悪事を陰でコソコソとどれだけやっているか分からないのである。狂人どもに、権力の一端を譲り渡すという愚行をなしたからだ。狂った悪魔どもから、分け与えてしまった権力の一部を取り返して、再び悪魔を檻に閉じ込めよ。ぐずぐずするな。お前がぐずぐずと先延ばしにすれば、悪魔に見込まれた人々の苦しみは深くなり、社会が荒廃するだけだ。
2016年1月1日金曜日
アニマは女性像ではない
アニマ(anima)という元型は、ユング心理学の個性化の過程の中間的な段階において現れてくるようである。アニマは、男性の心の中の女性像とされている。これに対して、女性の心の中の男性像は、アニムス(animus)であるとされているが、このアニムスについては、僕にはさっぱり分からないので、ここでは触れないことにする。
アニマが女性像であるとすれば、仏教でいえば弁財天(弁天。 Sarasvati)のようなものか。アニマは元型であるから、その住処は集合的無意識である。集合的無意識から立ち現れてきて、時として女性に投影される。このアニマが、恋愛においてどのような働きをしているのか、どのような役割を担っているのか、僕にはさっぱり分からない。とにかく、このような訳の分からない、むちゃくちゃな概念について考えることさえ厭わしい。
アニマが集合的無意識から現れてくる女性像ならば、その容貌はどのようなものだろうか。集合的無意識はあらゆる人類共通の無意識なのだから、そこから現れてくるアニマなるものは、Aさんの心の中のアニマも、Bさんの心の中のアニマも、Cさんの心の中のアニマも、Dさんの心の中のアニマも、すべて同じ容姿や顔つきをしているのだろう。また、黒人男性の心の中のアニマも、白人男性の心の中のアニマも、黄色人種の男性の心の中のアニマも、やはり同じ顔つき容姿をしているのだろう。ちょっと待ってくれ。そんな馬鹿なことがあるのか。それでは、女性像ではないではないか。ただの石ころか、せいぜい粘土を捏ねて作った何かの像みたいなものではないか。そんなものは、女性像なんかではない。心の中の女性像とは、あくまでも個人的な経験が母体になっているのである。アプリオリ(a priori)な女性像などというものはない。
男性が女性に“女”を感じるのは、その女性が個別的具体的な存在だからである。血が通い、息遣いが感じられる女性でなければ、“女”として認めがたい。一般的普遍的集合的な“女性らしきもの”には、“女”を感じない。女性性を具有していないのである。われわれは女神や弁天には“女”を感じることはないのであって、愛の対象となりうる女性性を女神や弁天は具有してはいないのである。もしも女神か弁天に恋をした男がいたら、その男は狂人として扱われ、現実の世界、人間の社会で生きていくことができなくなるにちがいない。女神か弁天を、またアニマを投影している女性に恋している男も、同様の運命を辿るにちがいない。アニマも、愛の対象となりうる女性としての資格がないのである。したがって、一般的普遍的集合的な“女性らしきもの”を投影したような女性と恋に落ちることもないし、愛を感じることもない。ユング派は、まさにこのような狂った人々ではないのか。
ユンギアンやユングの信奉者達は、すべからく愛から見放されている。遠山敦子が愛を知っているわけがなかろう。本当に愛を知っているのなら、人に対して、それも何人もの芸術家に対してあのように残酷になれるはずがないのである。龍谷大学文学部の小島勝教授も、愛を知らない。二度も結婚していながら、一度も愛を経験したことがないとは、ちょっと情けない気がしないでもない。愛を知っているのならば、人に対して、今度は僕に対してだ、あのように残酷になれるわけがない。こちらから願ったわけではない。勝手にヘラヘラ笑いながら向こうから近づいてきて、犯罪行為を行い、抗議しても今度は手のひらを返すように完全に無視しやがる。返事さえしないのである。僕は、このような冷たい恐ろしい人物とお近づきになんかなりたくなかった。
夏目漱石の『三四郎』で、与次郎が、“ Pity's akin to love.”という英文を「可哀想だた惚れたってことよ」と翻訳して広田先生に叱られる場面がある。ここで与次郎が叱られたのは、翻訳の表現が俗悪すぎるからであって、英文の内容とは関係ない。だが、憐れみが愛に転化することは、絶対にない。憐れみと愛とは、全くの別物であり、異質なものである。水と油なのである。水が油に変化することはない。もしも男がある女性に“女”を感じていて、その女性が愛の対象になりうるのならば、憐れみというもってまわったような、うそうそしい一次的手続きを践まないで、いきなり本題に入ることだろう。夏目漱石は、英文学を研究したことによって得られた観念をもとにして恋愛を扱った小説を書いているようである。実体験を基盤にしているのではないのである。中世の歌人が、昔読んだ物語の一場面を思い浮かべながら、恋の歌を作っているようなものだ。そのような恋愛小説に、一体どんな意味があるというのか。ユング派は、この夏目漱石と似たような、同じような次元の過ちを犯している。体験や経験を消し去り、それにかえて、一般的普遍的集合的な観念で置き換えようとする。これはもう、文化破壊や精神破壊としか言いようのないものである。また同様に、人間愛が狭義の愛、つまり異性間の愛に転換することもない。人間愛と狭義の愛も異質な別の物なのであって、人間愛が狭義の愛に転化することは絶対にない。
僕は、愛を感じている女性との仲を卑劣な手段で引き裂かれた。かわりに、愛のない女性との結婚を強要され続けてきた。僕は、それに抵抗しているために何度も何度も、これでもかこれでもかというふうに、断崖絶壁に追い詰められて死の恐怖を幾度も味わわされている。たとえ話にしよう。男が道を歩いていると、道端で乞食女が座り込んでいる(このたとえ話は、あまり適切ではないだろうが、分かりやすくするためには仕方がない)。男は乞食女をかわいそうに思い、幾許かの施しをした。乞食女は、男のこの行為を、男の愛の表現と勘違いしたのである。もしくは、乞食女は男の行為に触発されて、自分は男を愛していると、自分自身の心を取り違えて解釈したのである。その様子を見ていたユンギアンが、男を拉致して監禁し、暴行を加えて脅迫した。その乞食女と結婚せよ、そうすれば乞食女はその不幸な境遇から脱することができるであろう、と。ここでユング派の頭の中で、元型としてのアニマがどのような働きをしていると考えているのか見当がつかない。その乞食女に、アニマが投影されているとでも考えているのだろうか。愛も知らない、恋もしたこともないから、めちゃくちゃなことを考えるものだ。男は乞食女に“女”を感じていないのであって、それはつまり、乞食女は愛の対象になる資格がないということである。憐れみや人間愛が、狭義の愛に転化することは決してない。愛も知らない、恋もした経験もないユンギアンが、他人の愛や結婚に臆面もなく口を出しちょっかいを出すとは何事か。恥ずかしくないのか。ユンギアンが愛を全く知らないし、恋もしたことがないのは明らかである。彼らには、現実世界との関わりがないからである。虚構の世界のみに棲息している、人間ではない生き物だからである。だから彼らの中の男性は、現実の血が通い息遣いが感じられる女性と向き合った経験が皆無なのである。せいぜいアニマなどという、とても女性性を具有しているとは思えない奇妙な何かの像を、目の前にいる女性に投影して、その投影を受けた女性の女性性を剥奪しているのである。こうしてユンギアンは、愛のない世界に踏み迷い、さまよっている。そして愛ではないものを愛であると無理やり自分に言い聞かせようとし、他人にも愛を断念させて、愛にあらざるものに縋れと強要する。砂漠に迷い、さまよう人が、蜃気楼の幻影を見て、それに縋りつくようなものである。一本の草や木も生えない荒寥たる世界に、自己満足して浸かりきっているから不思議なものである。
ユング派が愛を知らないのは、すべてを一般的普遍的集合的なものに求めようとするからである。度を越した精神主義とでも言うべきものだろうか。精神主義も過度になりすぎると、かえって精神が荒廃する。白河の水が清らかすぎると、かえって田沼の濁りが恋しくなる。きれいは汚い、汚いはきれい、なのである(『マクベス』冒頭の魔女の言葉)。過度の精神主義は自己の精神を荒廃させるばかりではなく、他者の精神を押しつぶすものである。S・フロイトは、「エディプス・コンプレックス」という衝撃的な概念を提唱したために、精神分析は、いやらしいと見限って、ユング心理学に走った人もいるかと思う。ところが実生活では、S・フロイトよりもC・G・ユングのほうが、はるかにいやらしいのである(女弟子との関係)。集合的無意識のどこを探しても、愛に至るものは見つからない。愛から離されて、遠のいていくばかりだ。
「アニマは女性像ではないPARTⅡ」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part.html )
「アニマは女性像ではないPARTⅢ」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part_12.html )
「アニマは女性像ではないPARTⅣ」
( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part_13.html )
「アニマは女性像ではないPARTⅤ」
( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part_18.html )
「アニマは女性像ではないPARTⅥ」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part_20.html )
アニマが女性像であるとすれば、仏教でいえば弁財天(弁天。 Sarasvati)のようなものか。アニマは元型であるから、その住処は集合的無意識である。集合的無意識から立ち現れてきて、時として女性に投影される。このアニマが、恋愛においてどのような働きをしているのか、どのような役割を担っているのか、僕にはさっぱり分からない。とにかく、このような訳の分からない、むちゃくちゃな概念について考えることさえ厭わしい。
アニマが集合的無意識から現れてくる女性像ならば、その容貌はどのようなものだろうか。集合的無意識はあらゆる人類共通の無意識なのだから、そこから現れてくるアニマなるものは、Aさんの心の中のアニマも、Bさんの心の中のアニマも、Cさんの心の中のアニマも、Dさんの心の中のアニマも、すべて同じ容姿や顔つきをしているのだろう。また、黒人男性の心の中のアニマも、白人男性の心の中のアニマも、黄色人種の男性の心の中のアニマも、やはり同じ顔つき容姿をしているのだろう。ちょっと待ってくれ。そんな馬鹿なことがあるのか。それでは、女性像ではないではないか。ただの石ころか、せいぜい粘土を捏ねて作った何かの像みたいなものではないか。そんなものは、女性像なんかではない。心の中の女性像とは、あくまでも個人的な経験が母体になっているのである。アプリオリ(a priori)な女性像などというものはない。
男性が女性に“女”を感じるのは、その女性が個別的具体的な存在だからである。血が通い、息遣いが感じられる女性でなければ、“女”として認めがたい。一般的普遍的集合的な“女性らしきもの”には、“女”を感じない。女性性を具有していないのである。われわれは女神や弁天には“女”を感じることはないのであって、愛の対象となりうる女性性を女神や弁天は具有してはいないのである。もしも女神か弁天に恋をした男がいたら、その男は狂人として扱われ、現実の世界、人間の社会で生きていくことができなくなるにちがいない。女神か弁天を、またアニマを投影している女性に恋している男も、同様の運命を辿るにちがいない。アニマも、愛の対象となりうる女性としての資格がないのである。したがって、一般的普遍的集合的な“女性らしきもの”を投影したような女性と恋に落ちることもないし、愛を感じることもない。ユング派は、まさにこのような狂った人々ではないのか。
ユンギアンやユングの信奉者達は、すべからく愛から見放されている。遠山敦子が愛を知っているわけがなかろう。本当に愛を知っているのなら、人に対して、それも何人もの芸術家に対してあのように残酷になれるはずがないのである。龍谷大学文学部の小島勝教授も、愛を知らない。二度も結婚していながら、一度も愛を経験したことがないとは、ちょっと情けない気がしないでもない。愛を知っているのならば、人に対して、今度は僕に対してだ、あのように残酷になれるわけがない。こちらから願ったわけではない。勝手にヘラヘラ笑いながら向こうから近づいてきて、犯罪行為を行い、抗議しても今度は手のひらを返すように完全に無視しやがる。返事さえしないのである。僕は、このような冷たい恐ろしい人物とお近づきになんかなりたくなかった。
夏目漱石の『三四郎』で、与次郎が、“ Pity's akin to love.”という英文を「可哀想だた惚れたってことよ」と翻訳して広田先生に叱られる場面がある。ここで与次郎が叱られたのは、翻訳の表現が俗悪すぎるからであって、英文の内容とは関係ない。だが、憐れみが愛に転化することは、絶対にない。憐れみと愛とは、全くの別物であり、異質なものである。水と油なのである。水が油に変化することはない。もしも男がある女性に“女”を感じていて、その女性が愛の対象になりうるのならば、憐れみというもってまわったような、うそうそしい一次的手続きを践まないで、いきなり本題に入ることだろう。夏目漱石は、英文学を研究したことによって得られた観念をもとにして恋愛を扱った小説を書いているようである。実体験を基盤にしているのではないのである。中世の歌人が、昔読んだ物語の一場面を思い浮かべながら、恋の歌を作っているようなものだ。そのような恋愛小説に、一体どんな意味があるというのか。ユング派は、この夏目漱石と似たような、同じような次元の過ちを犯している。体験や経験を消し去り、それにかえて、一般的普遍的集合的な観念で置き換えようとする。これはもう、文化破壊や精神破壊としか言いようのないものである。また同様に、人間愛が狭義の愛、つまり異性間の愛に転換することもない。人間愛と狭義の愛も異質な別の物なのであって、人間愛が狭義の愛に転化することは絶対にない。
僕は、愛を感じている女性との仲を卑劣な手段で引き裂かれた。かわりに、愛のない女性との結婚を強要され続けてきた。僕は、それに抵抗しているために何度も何度も、これでもかこれでもかというふうに、断崖絶壁に追い詰められて死の恐怖を幾度も味わわされている。たとえ話にしよう。男が道を歩いていると、道端で乞食女が座り込んでいる(このたとえ話は、あまり適切ではないだろうが、分かりやすくするためには仕方がない)。男は乞食女をかわいそうに思い、幾許かの施しをした。乞食女は、男のこの行為を、男の愛の表現と勘違いしたのである。もしくは、乞食女は男の行為に触発されて、自分は男を愛していると、自分自身の心を取り違えて解釈したのである。その様子を見ていたユンギアンが、男を拉致して監禁し、暴行を加えて脅迫した。その乞食女と結婚せよ、そうすれば乞食女はその不幸な境遇から脱することができるであろう、と。ここでユング派の頭の中で、元型としてのアニマがどのような働きをしていると考えているのか見当がつかない。その乞食女に、アニマが投影されているとでも考えているのだろうか。愛も知らない、恋もしたこともないから、めちゃくちゃなことを考えるものだ。男は乞食女に“女”を感じていないのであって、それはつまり、乞食女は愛の対象になる資格がないということである。憐れみや人間愛が、狭義の愛に転化することは決してない。愛も知らない、恋もした経験もないユンギアンが、他人の愛や結婚に臆面もなく口を出しちょっかいを出すとは何事か。恥ずかしくないのか。ユンギアンが愛を全く知らないし、恋もしたことがないのは明らかである。彼らには、現実世界との関わりがないからである。虚構の世界のみに棲息している、人間ではない生き物だからである。だから彼らの中の男性は、現実の血が通い息遣いが感じられる女性と向き合った経験が皆無なのである。せいぜいアニマなどという、とても女性性を具有しているとは思えない奇妙な何かの像を、目の前にいる女性に投影して、その投影を受けた女性の女性性を剥奪しているのである。こうしてユンギアンは、愛のない世界に踏み迷い、さまよっている。そして愛ではないものを愛であると無理やり自分に言い聞かせようとし、他人にも愛を断念させて、愛にあらざるものに縋れと強要する。砂漠に迷い、さまよう人が、蜃気楼の幻影を見て、それに縋りつくようなものである。一本の草や木も生えない荒寥たる世界に、自己満足して浸かりきっているから不思議なものである。
ユング派が愛を知らないのは、すべてを一般的普遍的集合的なものに求めようとするからである。度を越した精神主義とでも言うべきものだろうか。精神主義も過度になりすぎると、かえって精神が荒廃する。白河の水が清らかすぎると、かえって田沼の濁りが恋しくなる。きれいは汚い、汚いはきれい、なのである(『マクベス』冒頭の魔女の言葉)。過度の精神主義は自己の精神を荒廃させるばかりではなく、他者の精神を押しつぶすものである。S・フロイトは、「エディプス・コンプレックス」という衝撃的な概念を提唱したために、精神分析は、いやらしいと見限って、ユング心理学に走った人もいるかと思う。ところが実生活では、S・フロイトよりもC・G・ユングのほうが、はるかにいやらしいのである(女弟子との関係)。集合的無意識のどこを探しても、愛に至るものは見つからない。愛から離されて、遠のいていくばかりだ。
「アニマは女性像ではないPARTⅡ」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part.html )
「アニマは女性像ではないPARTⅢ」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part_12.html )
「アニマは女性像ではないPARTⅣ」
( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part_13.html )
「アニマは女性像ではないPARTⅤ」
( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part_18.html )
「アニマは女性像ではないPARTⅥ」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part_20.html )
A HAPPY NEW YEAR
新年おめでとう。
今年こそ悪魔の手下どもをとっつかまえて、檻の中に閉じ込めていただきたい。言わずと知れた狂ったユング派のことだ。
河合隼雄の氷のような冷たさ恐ろしさを思い返してほしい。龍谷大学は、まだ分からないのか。小島勝教授の氷のような冷たさ恐ろしさを。現実との関わりがなく、虚構の世界のみに生きている者の精神が健全であるわけがないのである。教祖のC・G・ユングの個性化からして不健全であったからだ。遠山敦子が新国立劇場理事長であったときに、3人もの芸術家を「コミュニケートできない」といって一時に(いちどきに)くびにしたが、人と「コミュニケートできない」とは遠山が自分自身のことを言っていたのである。
今年こそ悪魔の手下どもをとっつかまえて、檻の中に閉じ込めていただきたい。言わずと知れた狂ったユング派のことだ。
河合隼雄の氷のような冷たさ恐ろしさを思い返してほしい。龍谷大学は、まだ分からないのか。小島勝教授の氷のような冷たさ恐ろしさを。現実との関わりがなく、虚構の世界のみに生きている者の精神が健全であるわけがないのである。教祖のC・G・ユングの個性化からして不健全であったからだ。遠山敦子が新国立劇場理事長であったときに、3人もの芸術家を「コミュニケートできない」といって一時に(いちどきに)くびにしたが、人と「コミュニケートできない」とは遠山が自分自身のことを言っていたのである。
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