スマートフォンは大変便利である。使う人にとって便利なスマートフォンは、使う人をコントロールしてやろうとする者にとっても便利である。スマートフォンがあれば、世界中どこにいても、インターネットに接続していなくても正確な自分の位置情報を手に入れることができる。これは、GPSを利用しているらしい。GPSは、もとは、また今も、軍の機密の技術だったが、民生用にいわば払い下げられたものである。ただし、民生用にされたものは、劣った機能のものであって、高度な機能のものは現在も軍だけが掌握し確保している。このような例は、過去にいくらでもあったし、現在も他にたくさんあるにちがいない。人をコントロールしてやろうと考えている恐ろしい連中は、このような軍の機密の技術を使用しているようである。いったい誰が、この恐ろしい連中に秘密の技術を与えたのだろうか。与えた者は、その技術を恐ろしい連中から取り戻すべきである。
Aさんをコントロールしてやろうとするとき、Aさんの周囲にいる人々を道具のように使うために一時的にコントロールする。たとえば、Aさんと待ち合わせしていたBさんが待ち合わせ時間に来ることができなくする。それは、Bさんのスマートフォンを使ってもできるだろうし、他のものを使ってもできるだろう。Cさんには、Aさんに聞こえるように何かを言わせたり、Aさんに影響のあるようなしかたで何かをさせたりする。Dさんには、Aさんとの間にちょっとしたトラブルを発生させたり、逆にふたりを親密にさせたりする。また、AさんのちょっとしたしぐさがEさんに、Aさんに対する途方もない誤解を呼び起こすようなシチュエーションにEさんを置いておくこともある。ある目的に向けて、このようなことを、ひとつひとつ積み重ねていくのである。こうしてAさんの置かれている状況や環境を変えていく。環境が変われば、人間は変化する。それでAさんに変化を起こそうというわけである。この場合のBさんやCさんやDさんEさんは、一時的な弱いレベルの操作の対象になっているために、自分が操作のターゲットになっていることに気がつきにくいだろう。
職業選択と対象選択は、人の人生で最も重要なことである。個人にとってプライバシーに属し、他人が介入してはならぬこの分野にさえも、やつらは手を出そうとする。F君とG子さんの仲を引き裂き、それぞれに別の相手をあてがう。これでは人間に勝手に交配相手を決められている家畜と同じではないか。人間の自由と独立を奪い取る。人間の自己決定権を奪い取る。しかも当の本人は、これらのものが奪い取られてしまったことさえ気がつかない。おそらく人間の終焉がやってくるだろう。人間の尊厳を冒す行為、冒瀆的行為はその行為を行った者の精神が崩れ落ちていることを示している。昔話では、冒瀆的行為をした人は醜い動物に変身させられる。これは人間性の喪失、人間ではなくなることを意味しているのだろう。
外国で何人かの日本人アーティストに出会った。それで、以上のような、人に対する操作・コントロールは文化的な方面で活動している人に対して甚だしいという感を強くした。文化領域から、やがて次第に経済や政治などの領域にも及んでいくだろう。
何度も繰り返すが、そもそもユング派のやつらは、もともと芸術や文学とは縁のないやつらなのである。それがユング心理学というC・G・ユングの個人的なすさまじい妄想体系に傾倒すると、俄然、自分を芸術家だと思い込むのである。厳密にはユンギアンではないが、あの魔女のような遠山敦子は、「遠山敦子のブログ」( http://ameblo.jp/toyama-atsuko/ )を見れば分かるように役人の文章しか書けないのである。遠山の文章には文学的芸術的天分の片鱗も感じられない、文学的芸術的素養もセンスもない、ただの俗物の文章なのである。それなのに、芸術でもない生け花の協会の名称を“日本いけばな芸術協会”としたのは理事長である遠山敦子だろう。恥ずかしくないのだろうか。厚顔無恥な俄か芸術家気取りである。ユンギアンというのは、この遠山敦子のような舞い上がった俄か芸術家気取りばかりなのである。したがって、やつらが芸術であると考えているものは芸術ではない。文学で言えば、大衆文学か通俗小説を純文学であると強弁しているようなものである。村上春樹の作品は通俗小説であるけれども、これを純文学だと強弁しているのである。村上春樹の作品は、文学的な動機によって書かれているのではない。ユング心理学という忌まわしい妄想体系を世に広め、人々を洗脳してこの妄想体系の虜にしてやろうという意図にもとづいて書かれているのである。文章も、ひどい文章である。これは、通俗小説か大衆文学と呼ぶしかない。俄か芸術家気取りのユング派の文学観芸術観は、たかがこのようなものであるにもかかわらず、これも何度も繰り返して言ってきたが、やつらは舞い上がってすさまじいばかりの狂信性を示す。そして恐ろしいことに、芸術を改変してやろうと考えたのである。自分たちは、芸術を深く理解している。これは、C・G・ユングがヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse)を研究して達成された。それで、芸術や文学の創造過程も分かってきた。であるから、この知見をもとにして現在の芸術家達の創作過程にともに携わり協力してやるぞ、というのである。これは何も芸術や文学だけに限ったことではなく、たとえばポピュラーミュージックやダンスなどの近縁の分野も含んでいる。こうして、やつらはアーティスト達に興味を示し、その創作過程に介入しだすのである。やつらが掲げる御旗は、自分たちが創作過程に介入することによって、その創造性の質を高めてやろうというものである。そのために、やつらはアーティストにストーカーのように付き纏う。そして先に述べた、高度に発達したITなどの秘密の科学技術を利用して、アーティストの環境そのものを変えていく。環境が変われば、アーティストの生活の様々な面で変化が生じる。愛の対象さえも、本来の対象ではなくなり、別の人に置き換えられるだろう。愛の対象が誰であるかは、創造の過程において最も重要な要因である。このようにアーティストの環境や状況が変化すれば、アーティストの人間性そのものが変化する。これはつまり、アーティストの人格をユング心理学に親近性のある人格にしようということである。しかし、これではアーティストの創造性は死んでしまう。ユング派が芸術や文学とは無縁な人種の人ばかりなのであるから、創造性とも当然無縁である。やつらには、創造過程を理解できるはずがないのである。そもそもヘルマン・ヘッセの作品が文学だろうか。ノーベル文学賞は受賞しているかもしれないが、ノーベル賞の受賞者がすべて立派な文学者ではないことは受賞者のリストを見れば一目瞭然だろう。「車輪の下」のあの暗いわびしい世界は、まさに精神の荒野である。花も実もならない世界、草も木も生えない世界を描いている。このようなわびしい、心の貧しい作品を子ども達に読ませるな。子どもの心の成長に有害ではないか。こんな者が果たして文学者・作家だろうか。ヘッセなんかを研究したところで、文学の創造についての正しい知識が得られるはずがないのである。
通りゃんせ。通りゃんせ。
「ここはどこの細道じゃ」
「天神様の細道じゃ」
「ちと通してくだしゃんせ」
「御用のないもの通しゃせぬ」
「この子の七つのお祝いに御札を納めに参ります」
「行きはよいよい帰りは恐い。恐いながらも通りゃんせ。通りゃんせ」
これは日本の古謡である。この歌のこの詞を解釈するのは至難の業である。ではあるけれども、ここに僕なりの解釈を提示しよう。天神様とは、菅公つまり菅原道真公のことである。菅原道真公は学問の神様である。学問の神様は、文学の神様と言い換えてもよい。そこで「天神様の細道」はどこに至るのかということであるが、これは文学的芸術的創造性に至り着く道なのである。この道は細く険しい。同行者がいてはならない。満五歳くらいの子どもがひとり登場しているが、この子どもは同行者の数に含めなくてもよいだろう。たったひとりで険しく細い道を、とぼとぼと歩いて行くのが創造に至る過程である。それは危険を伴う。もしも他人の同行者がいれば、その危険を避けることができなくなるだろう。つまり、共倒れになるのである。歩み出してすぐに、ふたりとも谷底にまっさかさまに転落するだろう。しかも、同行者がこの細道の様子を観察し究明してやろうという下心があれば、尚更、この細い道をふたりで通ることはできない。また、この同行者は細道をちゃんと観察することができない。同行者がいるだけで、細道は姿を隠すかもしれない。同行者がいるだけで、細道は崖崩れを起こして道そのものがなくなってしまうかもしれない。「御用のないもの通しゃせぬ」なのである。同行者がいれば、天神様の細道の通行を許可された人自身、つまり文学者か芸術家自身が「御用のないもの」になってしまう。
トルコ帝国の皇帝だっただろうか。戦いに敗れて捕らわれの身となった。敵国は、この皇帝を檻の中に入れて、この檻を衆人に見物させて見世物にしたのである。パンを檻の中に投げ入れて、「おい、皇帝。餌を恵んでやるぞ」と言って、皇帝がガツガツと食べる様子を観察してはみんなで楽しんだり、後ろから棒でつっついて皇帝が怒る様子を見ては、みんなでゲラゲラ笑ったりしていたのだろう。人は、このような状況では精神を維持していることはできない。その人の精神は破壊される。皇帝は、その後自殺した。
素っ裸にされて、人前で長い間晒し者にされても、人は精神の健全性を維持することはできない。人の心の中を覗き込むことは、そのような残酷な行為と同じである。精神が崩れてしまう。ストーカーのように付き纏われ続けることは、人前で素っ裸にされて長い間晒し者にされ見世物にされているのと同じである。
僕は長い年月、このような操作のターゲットになってきた。そもそもの発端は、僕のある行為を文部科学省が間違って、ものすごく悪く解釈したことである。僕には、そのような意図など全くないのに、文部科学省が僕に悪しき意図があると勝手に誤って解して決めつけたのである。そうして文部科学省のすさまじい虐待が始まった。あちらこちらに、僕の虚偽の悪口を広めた。そのために、家族や親戚も友人も仕事も、そして愛する人もすべてを失った。僕にとって、とても大事な創造の泉も、おそらくもう涸れてしまったのではないかと思う。環境を変えられるということは、環境を剥奪されたことと等しい(「自我を死守せよ」 http://gorom2.blogspot.jp/2015/02/blog-post_27.html )。この恐ろしさには、耐えられるものではない。ユング派は、この環境の剥奪という卑劣な恐ろしい手段によって人を追い詰め、人を自分たちの思い通りの方向に動かし、人間の“改造”をしてやろうと目論んでいるわけである。人間の“改造”とは、むろんユング心理学の妄想体系に則った人格的な変化(激変)である。この激変が起これば、創造的機能が活性化されるし、対人関係においても人の優位に立てる、とユング派は考えている。そして何よりも、安寧という境地は、とてもいい気分にしてくれるのである。実は、この境地は人間でなくなることであることは、これまでに何度も言ってきたことである。しかし、この環境の剥奪に耐えなければ死があるのみである。
まもなく残酷な殺戮が始まる。嬲り殺しになるそうだ。自殺に見せかけて殺そうとしては、それを助けたふりをする。このようなことを何度か繰り返して、最後に本当に殺してしまうそうだ。残酷なやつらだ。どうか助けてください。この恐ろしいやつらを、トルコ皇帝のように見世物にする必要はないが、檻の中に閉じ込めてください。