2015年1月28日水曜日

もうひとつのサイト

 当サイトに、もうひとつ姉妹サイトを作成中です。

真幸くあらばまたかへり見む(WILDFLOWER)(野の花)
http://gorom8.blogspot.com/

 この新しいサイトは別の予定のために作ったのですが、名大生の事件が発生したために急遽予定を変更しました。

2015年1月25日日曜日

くびにしてください

 次の団体の関係者の方々は、遠山敦子の理事長、会長、顧問、社外取締役、監査役などの職を免じてください。犯罪者のくせに何の反省もしない。東京大学法学部卒業だといいながら、法律が全然わからない。学歴を詐称しているのではないかと思いました。このような人物を、各種団体の会長や理事長等に就かせておくのはやはり好ましくないでしょう。また、旭日大綬章も返納すべきかと存じます。
                      記
財団法人新国立劇場運営財団
公益財団法人トヨタ財団
公益財団法人パナソニック教育財団
財団法人日本いけばな芸術協会
日本・トルコ協会
株式会社NHKエンタープライズ
株式会社電通

再掲 遠山敦子、目を覚ませ(14)

(この記事を“up”しようとしたら、またインターネットを使えなくなった。反則、ルール破りばかりやりやがる。こんなやつらを社会に置いておくわけには、いかないだろう。京都大学、文部科学省は、残虐行為をいつまで指をくわえて眺めているつもりなのか。“the devil”を野に放ったのは、遠山敦子に加えて誰の責任なのか。2015年1月24日記)

遠山敦子、目を覚ませ(14)

遠山敦子元文部科学省高等教育局長殿

  こんにちは。今晩は。またお邪魔しますよ。いやね、わたしは、みんなが今は夜中だといっているのに、どうも昼にしか思えないときがよくあるのですよ。これって、やっぱり変でしょうかねえ。困ったな。なにしろ、わたしは昔から変人だ、変人だと言われつけていますのでねえ。
 それでですね。ええと。何しに来たのだったかな。ああ、そうそう。思い出しました。どうか、ご安心ください。大変失礼なことを申し上げるようで恐縮なのですが、遠山さんは東大の法学部を御卒業になりエリート官僚におなりになって、次々と出世していかれました。わたしなんかは、逆立ちしても東京大学には合格できそうもありませんでした。よくおできになったのですね。ただね、わたしは、もしも東京大学の入学試験科目が現代国語1科目だけだったら、運がよければ、もしかして合格できたかもしれません。
 東京大学法学部の御卒業なのに、どうして突如として法律や規則のことが分からなくなったのですか。まるで、頭の中が、すっかり白紙に戻ったみたいではありませんか。先祖がえりしたような感じではありませんか。そうして、せっかく有能な官僚としての地位を確立していたのに、すっかり無能官僚みたいになってしまいました。ええ?おわかりにならない?わかるでしょう。僕から申し上げましょう。それは自我が大きなダメージを受けたからです。ユング心理学の虜になり、ユングや河合隼雄の信奉者になったことが原因です。
 前にも申し上げましたが、ご自分のブログの閲覧者の数を、まともに受けとめないようにしてください。それを、まともに受けとめられると、僕が今までに言ってきたことの信頼性が失われる結果になることを恐れるからです。遠山さんは何も感じませんか。こんなことを言うのは、少し勇気がいることですが、どうせ、いつ殺されるか分からない状況になっているので、半ば、やけくそで言ってしまいましょう。インターネットは、何者かによって完全に支配され操作されコントロールされていると思います。もちろん、すべてのWebサイトが操作の対象になっているわけではありません。大部分のWebサイトは、何の影響も蒙ってはいません。現実的に、すべてを対象にすることは不可能でしょう。彼らが、これはと“白羽を立てた”ものだけが、そのターゲットになります。そうすれば、被害を受けている人がその被害を訴えても、あいつ頭がおかしいのではないか、と誰も信じてくれません。自分のサイトの閲覧者数やその推移を見てそう思いました。また、ある掲示板に書き込みをしたときに気がついたのですが、僕の記事について幾つかのコメントがなされているにもかかわらず、僕が再びその記事を閲覧しにいってみると、僕の記事のアクセス数が“1”だったりしたことが何度もありました。これは、何者かがインターネットを掌握し支配しているとしか考えられません。そして、これに対しては、“google”や“Ameba”といった、ブログの運営団体もどうすることもできないのではないかと思います。すると、すさまじいことになります。彼らは、彼らにとって気に入らない企業や個人を倒産させたり破産させたりすることもできることになります。たとえば新聞社は、収益の中で広告収入が大きな比重を占めるようになっているのではないでしょうか。新聞社の広告の閲覧数やクリックした数を操作すれば、その新聞社の収益を実際と違う額に変えることができるということになります。そうすれば思い通りに、ある新聞社を潰し、別の新聞社を実際よりも多く儲けさせることもできます。彼らが潰したがっている新聞社は、朝日新聞社なのでしょうか、毎日新聞社なのでしょうか。潰すことは考えていないかもしれません。読売新聞社のように、もっと素直なよい子になりなさい、ということかもしれません。
 こんなすさまじい世界には、生きていたくないもんですな。ともあれ、インターネットを信頼するわけにはいきません。本当は今の時点でこんなことをいうつもりはなかったのですが、遠山さんが自分のサイトの閲覧数を御覧になって、何だ世界中の人が注目しているという森山のいっていることは出鱈目ではないか、と思われることを恐れたので不本意ながら申し上げました。

再掲 遠山敦子、目を覚ませ(13)

 ああ、そうそう、もうひとつ言っておかないと。
 1個の行為が複数の構成要件に該当することについては、前に述べました(遠山敦子、目を覚ませ(12)http://gorom2.blogspot.com/2015/01/12.html)。実はね、該当する構成要件が、もうひとつあるのですよ。朝日新聞の記事、「天下り理事長代わるか? 新国立劇場人事に芸術界注目」(http://www.asahi.com/special/minshu/TKY201101050330.html)
(asahi.com 朝日新聞2011年1月6日付)の、「天下りなのに舞台内容にまで口を出す。前に出すぎて現場を混乱させることもしばしば」という箇所についてですが、器物損壊罪または業務妨害罪、さらに詐欺罪に該当すると申し上げていました。それに加えて、公務員職権濫用罪または強要罪の構成要件にも該当します。これについては、僕がくどくどと説明して教えてあげなくても、いくら遠山さんでもお分かりになるでしょう。
 あっ、そうそう、もうひとつ言っておかなければならないことがありました。遠山さんは芸術家でも何でもありませんが、仮にですよ、遠山さんが芸術家だとしたら以上の罪はどうなるか、ということです。これは結論から言いますと、どっちにしても同じだということになります。たとえば、絵を描いている芸術家としての画家のところに行って、これもやはり芸術家としての画家が、「何だお前、下手糞だなあ。よし、俺がちょっと描き直してやろう」と言って、絵を描いている画家から絵筆を奪い取って、ほぼ完成している絵に上手な描き込みをしたら、これでも芸術作品の破壊行為になります。芸術とは有機体なのです。それだけで、1個の全体性、完全性を持って完結しているものなのです。たとえ芸術家であっても、他の人が描き加えたりすることはできません。
 それでは、きたる2月1日の貴殿のブログの更新を楽しみにしています(「遠山敦子のブログ」 http://ameblo.jp/toyama-atsuko/ )。世界中のたくさんの皆様が御覧になると思います。ここはぜひ、芸術的香りの高い文章で、世界中の人々を魅了していただこうではありませんか。ただね、ブログのアクセス数を見て、以上のことと結びつけて考えないでください。Webサイトのアクセス数というものは、もうめちゃくちゃなのです。絶対にありえない数になっていることも、よくあります。ブログで月に何十万円稼いだとか、百万、二百万円稼いだとかで喜んでいる場合ではありません。

再掲 遠山敦子、目を覚ませ(12)

遠山敦子元文部科学省高等教育局長殿

 貴殿には素晴らしい芸術的センスと素養があることを、立証してはいただけないのですか。これは困ったな。立証していただけないとなると、貴殿の罪が重くなってしまうのですがね。
 それじゃあ、こうしましょう。貴殿のブログの次回の更新日は2月1日のようだから(「遠山敦子のブログ」 http://ameblo.jp/toyama-atsuko/ )、その日にもですね、自分にはこんな素晴らしい芸術的センスと素養があるということを立証していただけませんかね。ええ?それも、いやですか?ええ?芸術的センスも素養もどこにもないのだからしかたがない?ええ、まあ、そう言われてみれば確かにそうなんですけどもね。しかしね、それでは、罪が重くなってしまうんですよ。うーん、困ったな。それじゃあ、次回のブログの更新を、ともかく拝見させていただきましょう。。ただ、一言、いっておきますがね。ああいうブログをですな、お役所の公文書を書くようなつもりでお書きにならないほうがよろしいかと存ずる次第なのでありますが、いかがでしょうか。それでは、ブログの次回の更新を期待しております。きっと芸術的なセンスにあふれた素晴らしい文章を読ませていただくことになるでしょうなあ。待ち遠しいな。
 ああ、そうそう。大事なことを言うのを忘れていた。
 遠山さんね。それで、遠山さんが新国立劇場の理事長であらせられたときに、なされたことについてですがね。朝日新聞の記事を、もう一度読んでください。「天下り理事長代わるか? 新国立劇場人事に芸術界注目」(http://www.asahi.com/special/minshu/TKY201101050330.html)
(asahi.com 朝日新聞2011年1月6日付)です。この中の、「天下りなのに舞台内容にまで口を出す。前に出すぎて現場を混乱させることもしばしば」という箇所です。権限がないにもかかわらず、しかも芸術的素養もセンスもないにもかかわらず、演劇の創作過程に介入し関与しておられたということですね。この行為が芸術作品の毀損行為になることは、前に申し上げました(「自我を失ったら3
http://gorom2.blogspot.com/2015/01/blog-post_16.html など)。器物損壊罪または業務妨害罪に該当するでしょう。それでですね。この行為は、おそらく何度も繰り返されたのだろうとおもいますが、その幾つかある行為のひとつだけを取り出してみても、その1個の行為が複数の犯罪を構成していることが、お分かりになりますか?つまり、複数の構成要件にまたがる数個の結果を発生させるために1個の行為が行われたということになります。ええ?おわかりにならない?これは参ったな。法律や規則の、ど素人と話すときには、一から手を取り足を取りして教えてあげないといけないのですか。疲れるなあ。僕もね、法律はあまり得意ではないのですよ。
 それじゃあね、例を考えてみましょう。ある人は、小豆餡が大好きだとします。実は僕も大好きなのですが。それで、ある日、無性に大福餅が食べたくなった。そして和菓子屋に出かけて行きました。店の店員に、「僕は小豆の餡子が大好きでね。小豆の餡子がいっぱい詰まっている大福餅はありますか」と聞きました。店員は、「はい、ございます」と答えて大福餅を包んでくれました。その人は家に帰って、包みを解いて大福餅を一口食べました。すると、中から出てきたのは、小豆餡ではなく白餡だったです。白餡の大福餅というものがあるのかどうかは知りませんが、仮にあることにしておきます。遠山さん、これをどう考えますか。店員が小豆餡の大福餅と白餡の大福餅を間違えただけなら、和菓子屋に戻って品物を交換してもらうことで済んでしまうでしょう。ところが、そうではなく、店員に悪意がある場合にはどうでしょうか。店員が故意に白餡の大福餅を売りつけた場合です。この“悪意”が、単なる“悪しき意図”という意味でないことぐらいは御存知ですよね。たかが大福餅ぐらいでとお考えでしたら、これを宅地建物や乗用車などの売買と置き換えて考えてください。当然に詐欺でしょう。遠山さんも、これは詐欺だと考えられるでしょう。大福を買った人は、和菓子屋に掛け合いに行って、代金の返還はもちろん、損害を賠償してもらうことができますね。その人が白餡が大嫌いなために、白餡をそれと知らずに口に含んだことによって気分が悪くなり、吐き気がして仕事ができなくなったら、その仕事によって得ることができたはずの報酬額を逸失利益として、賠償を請求できます。形式的には当該の和菓子店が詐欺を行なったことになります。ですから和菓子店が客に対して損害を賠償し、その上で和菓子店が当該店員に求償することになります。
 僕はA大学構内で詐欺犯罪の被害に遭いましたが、A大学の場合は、この和菓子店のケースと同じでしょう。あれは、法人としてのA大学が、僕に対して詐欺行為を行ったのです。高額な授業料や入学金等を支払った相手は、A大学だったのです。ですから、A大学が僕に、遠距離の2度の引越し料金などの諸経費に関する慰謝料を上乗せした損害賠償金を支払い、その後にA大学が、実行犯のふたりの教授や正犯とみられる河合隼雄と氏原寛と酒井汀に求償するのが筋でしょう。
 それでは、大福餅の事件を、遠山さんが新国立劇場理事長であったときに行なった件に当て嵌めてみましょう。

「天下りなのに舞台内容にまで口を出す。前に出すぎて現場を混乱させることもしばしば」

という記事の箇所についてですが、これは器物損壊罪に該当することは前に述べました(「自我を失ったら3」 http://gorom2.blogspot.com/2015/01/blog-post_16.html )。絵画作品を描いている画家のところに行って「代わりにわたしが描いてあげよう」と、画家から絵筆を奪い取って下手糞な絵を描き込むのと同じです。これは芸術作品の破壊行為です。遠山さんの場合は、演劇活動を妨害したことになります。これも芸術作品の破壊行為です。演出家□□□□の作品を、演出家□□□□の演出でないものにしてしまいました。しかも、その芸術的価値までも奪い取ってしまったのです。
 新国立劇場に来る観客達は、演出家□□□□の芝居を観るために来ているのです(小豆餡を求めて)。パンフレットには「□□□□演出」と記載されているでしょうし、チケットにもそのように書いてあるでしょう。ところが新国立劇場にやって来た観客達が観たものは、演出家□□□□が演出したものではなくて、遠山さんがでしゃばってめちゃくちゃにした、演劇とは名ばかりのつまらない小学校の学芸会の劇みたいな代物だったわけです(小豆餡ではなく白餡を食べさせられた)。これは詐欺ではありませんか。大福餅の話と同じではありませんか。小豆餡を食べたかったのに、嫌いな白餡を食べさせられたのと同じではありませんか。まともな心理学を学ぶつもりで大学院に入学したのに、訳の分からないユング心理学とかという心理学とはとても呼べない邪教みたいなものを強制されたのと同じではありませんか。
 そうすると新国立劇場の観客達は、チケット代を返還せよと請求することができます。われわれは□□□□演出の演劇を観に来たのだ。理事長とかいう、ど素人がめちゃくちゃにしたつまらない演劇を観に来たのではない、と。この請求は、法人としての新国立劇場になさるべきでしょう。新国立劇場は、請求が正当であることを認め、謝罪した上でチケット代金の返還と損害賠償の請求にも応じなければなりません。新国立劇場へ行くのですから、女性は着飾って行くでしょうし、男性も洋服を新調するかもしれません。僕みたいに、ステテコの上にトレーニングパンツで出かけるわけにはいかないでしょう。他にも仕事をキャンセルしたとか、様々な事由があるはずです。新国立劇場は、それらの損害をすべて賠償しなければなりません。また、国立ですから、国民にも明らかにして周知徹底し、謝罪しなければなりません。新国立劇場が、そのように誠意ある対応をとらないようでしたら、観客達は新国立劇場を相手どって集団訴訟を起こすことになります。そして、新国立劇場にきちんと対応させた上で、新国立劇場は遠山敦子に求償することになるでしょう。

遠山敦子が理事長であった当時に、新国立劇場に観劇に行かれた方々
 チケット代金、その他の経費(これは、かなりの高額になる方もいらっしゃると思います)の返還と賠償を、新国立劇場に請求してもよいと考えます。新国立劇場が支払いに応じないようでしたら、集団で提訴してください。権限も何もない、その上、芸術的素養もセンスもないくせに、権力を笠に着て偉そうに口を出して、せっかくの芝居をめちゃくちゃにしていました。たとえば絵画の芸術作品の1点にでも、黒いしみのようなものを描き入れたら、その芸術的価値は完全に失われるでしょう。久しぶりに芸術作品を鑑賞しようかなと、展覧会に出かけてみれば、そんなひどい作品だった。これは、美術館の入館料の返還を請求できますよね。この例と同じことです。著しく品質の低下した、劣化した粗悪品を提供されたのと同じことです。
 また演劇以外にも、オペラなどで偉そうにでしゃばって、芸術作品の毀損行為を行っている可能性があります。心当たりがある新国立劇場の関係者の方は、調査をお願いします。そうして、遠山が創作を妨害した事実がありましたら、演劇と同じように対処してください。

自我を失ったら4

 確かに自我(ego Ich)には人を癒す力があるようである。「自我を失ったら3」(http://gorom2.blogspot.com/2015/01/blog-post_16.html)の第4段落、「自分の内に、何か醜悪で恐ろしい衝動があると思っておびえていたとしても、毎日決まった時間に起き、決まった時間にきちんと会社に出勤して、ちゃんと仕事していれば、そんな衝動なんかないのと、どこが違うのか。自我さえ正常に働いておれば、それでよいではないか。」と書いたことと並べて考えてください。
 たとえ何か醜悪な衝動が心の内にあるのを感じ、そしてそれが病的なものだったとしても、毎日なすべきことをきちんとやっておれば、これを治癒と看做してどこがいけないのか。
 ユング心理学は、この自我の治癒力の方向とは逆の方向を向いているのである。

 徒然草に次のような一節がある。

「狂人の真似だといって大通りを走っていれば、その人は確かに狂人である。おれは人殺しの真似をしているだけなのだ、といいながら人を殺めれば、その人は間違いなく殺人者である。」(第八十五段から。現代語訳は森山梧郎)

 徒然草(Essays in Idleness)は、日本の古典である。14世紀前半に成立した。作者は、“Kenkou Houshi”。その文章力は、日本人の中でも指折りの名文家であるといってもよい。人生に対する深い観照的態度、そして人間に対する旺盛な興味と好奇心、また、あらゆるものに対する鋭い観察力には抜きん出たものがある。まだ自我の概念が確立するはるか昔に、自我について、こんなに深く考察していた人がいたとは驚きだ。
 “Kenkou Houshi”は続けて言う。

「もしも名馬(a good horse)の後について行って、その名馬の真似をしている馬がいたとすれば、その馬に『お前は立派な馬だ。確かにお前も名馬だよ』と誉めてやってもよい。君主の中に、中国古代の名君主である舜(Shun)に習い、模倣しようとしている君主がいたとすれば、この君主もやはり紛れなく名君(ruler of virtue)なのである。たとえ偽りであっても、つまり、それが表面上のことであり格好だけのものであっても、賢い人に学び模倣しようとすれば、その人はやがて本物の賢人になっていることだろう。」(第八十五段から。現代語訳は森山梧郎)

 “Kenkou Houshi”は、世捨て人(隠遁者 a hermit)であった。仏教の修行のために、家を捨て、家族を捨て、世の柵(しがらみ)をすべて断ち切ったのである。この時代には、このような世捨て人がたくさんいた。彼らはみんな、超越的世界と何らかの関わりを持とうとするなら、名誉も、出世も、財産も、家族との絆をさえも捨て去り断ち切らなければならないことをよく承知していたのである。そうでなければ、超越的世界との関係が汚れてしまうのである。
 ユング派は、必死になって狂人や犯罪者の真似をしている人々である。世の中の、どこにでもいる目立たない、普通の慎ましい平凡な人々の真似をしていれば、それでよいのである。自我の基本は、世の普通の平凡な人々と同じように行動し、生きていこうと決意することである。自分の内にある醜悪で恐ろしい衝動に、とらわれすぎないことが大切である。無視せよ、というのではない。そこにあるのを認めながら、捕らわれないということである。“それ”がそこにあるのを意識していながら、“それ”に振り回されないということである。これは、仏教の悟り(satori or enlightenment)の境地に通じる心のあり方ではないだろうか。
 ユング派は、“それ”に振り回されているのである。これこそが“きじるし”なのであり、これを精神病という。皆さんは、精神病について、何か大きな勘違いをしていませんでしたか。

2015年1月21日水曜日

インターネットは恐い

 長い間、インターネットを使うことができなかった。どこまで卑劣なやつらか。まるで、反則ばかりやっている相手とスポーツの試合をしているみたいだ。社会のルールや法律を遵守できないようなやつらを、社会に置いておくことはできないではないか。拠り所も基盤となる何ものもないのに、妄想体系にとり憑かれて、ある日突然舞い上がる精神病者どもを、野に放ったままにしておくな。危なくて恐くてしようがない。早く社会からつまみ出してほしい。

御了承ください

 森山梧郎のサイトでは、コメント、読者登録、アクセスランキングなどには一切受け付けたり参加したりしたりしていません。どうか御了承ください。
 その理由については、今は申し上げたくありません。インターネットの恐さ、インターネットに対する不信とでも申し上げておきましょうか。御意見、御要望がありましたら、メールでお願いします。僕は、書いた論文が発表できなくなりました。翻訳した外国の民話さえ出版できなくなりました。そういうことで、この頼りないインターネットに頼るしか手がなくなったのです。

真幸くあらばまたかへり見む (OCEAN)
http://ameblo.jp/dwuu/entry-11914326732.html

2015年1月16日金曜日

二箇所、書き加えました

 書き加えた箇所が二箇所あります。新しく書いた、緑のフォントにした「審判に」は野球の投手の話のところにあります(第2段落)。たったこれだけの語ですが、大事なことではないかと考えました。昨日書き入れた青いフォントの箇所は、第8段落にあります。

Forested Mountain 「自我を失ったら3」
http://gorom2.blogspot.com/2015/01/blog-post_16.html

自我を失ったら3

(書き加えた箇所が二箇所あります。新しく書いた、緑のフォントにした「審判に」は野球の投手の話のところにあります(第2段落)。たったこれだけの語ですが、大事なことではないかと考えました。昨日書き入れた青いフォントの箇所は、第8段落にあります。

 ある人が本屋の棚を見上げて、「ああ、あの本ほしいな」と一瞬、思ったとしよう。書棚を整頓するふりをして傍にいた本屋の店員が、じっとその客の様子や振る舞いを観察していて、「ちょっとお客さん。お客さんは今、万引きしてやろうと考えていたでしょう」と、その客の腕をつかんで本屋の事務室に引っ張っていき、そして、心に邪悪な願望を抱いている悪者をとっ捕まえてやったのだと自慢していれば、誰もが「この店員、頭がおかしいのではないか」と考えるだろう。そうなのだ。たとえ、ある衝動があったとしても、その衝動を現実的な行動にしなければ、ないのとおなじなのである。(自我が)それを忘れているこの店員は、やはり“きじるし”なのである。自我(ego, Ich)がぐらつき、危険な状況に陥っている。
 外顕的結果がすべてである。スポーツでも、そうである。野球(baseball)で、ある投手はすばらしい球を投げていたが、味方の内野手のエラーや外野への飛球が風に流されてホームランになって敗戦投手になってしまった。相手方の投手は、これに比べて遅くて力のないボールを投げていたが、相手のエラーや風などに助けられて味方が勝ったために、勝利投手になった。ここで負けたほうの投手は、あんないい球を投げていたのに自分が敗戦投手になるのはおかしい、と審判に文句をいえるだろうか。文句をいうとすれば、この投手も、やはり“きじるし”であるといわねばならない。
 これは、どちらも自我の問題なのである。野球の例の場合は、すばらしい球を投げておりながら、不運のために敗戦投手になってしまった投手よりも、へなちょこ球を投げて出来の悪い投手のように見えていながら、運がよくて勝利投手になった投手のほうが、この試合に関しては上手(うわて)だったのである。これについて、誰も異議申し立てをすることはできない。正常な自我は、これを受け入れる。
 自我は、社会のルールや規範や決まり事や約束事に従う。社会のルールや規範や決まり事や約束事に従うかどうかを決めるのが自我であると言ってもよい。自我の基本的な性質は、世の中のほとんどの、当たり前の普通の正常な人々が行動するのと同じように行動することをえらびとることである。それが正常に行われているのが、世の中のほとんどのまともな人々なのである。自分の内に、何か醜悪で恐ろしい衝動があると思っておびえていたとしても、毎日決まった時間に起き、決まった時間にきちんと会社に出勤して、ちゃんと仕事していれば、そんな衝動なんかないのと、どこが違うのか。自我さえ正常に働いておれば、それでよいではないか。
 これが正常に行われないとすると、深刻な問題が出てくる。
 心の深層に、集合的無意識や元型などという、ありもしないものの存在を想定し、それに拘泥することによって現実をなくし、自我をも失ってしまった。そんなものにばかり目を向けていては、現実がわからなくなるのである。そもそも、ユング心理学の個性化の過程の初期の段階における元型としての“影(shadow)”(自分の内にある悪なるもの)の自我による同化(assimilation)が、彼らの自我の崩落を予言していた。彼らは、社会のルールや規範や決まり事や約束事には従わなくてもよいと考えたのである。そうすると、先ほどの書店の店員や不運によって負けてしまった投手の例のようになってしまう。社会のルールや規範や決まり事や約束事、さらに法律にも従わなくてもよいと考える、実に恐ろしい人間になってしまったのである。
 A大学で詐欺犯罪の被害に遭ったとき、A大学構内でユング派の酒井汀から妙な素振りで驚かされた(「自我を失ったら2」http://gorom2.blogspot.com/2015/01/blog-post_4.html)。“達磨さんのにらめっこ”は、講義中での出来事だったのである。やっていいことと悪いことの区別がついていないのは、幼い子ども並みである。このようなことは、まともな正常な人ならしないものであり、このようなことをすれば相手がどんなに恐怖に陥るか、ということがわからないのだろうか。自我を喪失してしまっているのである。A大学構内で起きた犯罪事件に、B大学からA大学に派遣されていた酒井汀も加担していたのではないかと疑っている。そうすると、B大学にも何らかの責任があるのかもしれない。
 元文部科学大臣の遠山敦子は、ユングファン、河合隼雄ファンになったのだろうけれども、それですっかり舞い上がってしまった。新国立劇場の理事長になったのだけれども、この新国立劇場は私が設立した劇場だといわんばかりに(勿論、遠山敦子が設立したのではない。文部科学省でもない。設立したのは日本国民である)、権限もないのに、しかも自分には何の芸術的素養もないのに、芸術の創作過程に偉そうに口を出した。そして、当該の芸術をめちゃくちゃにしてしまった。この場合は演劇であったのだけれども、たとえば絵を描いている画家のところに行って、「うーん、構図がもうひとつだね。色をもっと明るくしたら?それじゃあね。わたしが代わりに描いてあげよう」と、画家の絵筆を取り上げて作成中のほとんど完成に近づいた絵に、勝手に下手糞な描き込みをするようなものである。これは芸術作品の破壊行為である。電気は、もともと物とは考えられてはいなかった。それを裁判所が電気窃盗の被害の救済措置として、財物と看做していたのである。演劇活動も、物か否かという点では電気と似たような状況にある。類推すればよいわけだ。器物損壊罪か業務妨害罪になるだろう。本当はもっともっと重い犯罪なのだけれども、立法措置はこれぐらいしかとられていないようである。それで、遠山が妨害したのは、演劇活動であったわけだが、絵画作品の場合には罪に問われるけれども、演劇活動の場合には罪に問われないとすれば、あまりにも公平を失する。そのようなことを斟酌して、裁判所は必ず、演劇活動の場合でも器物損壊罪の成立を認めてくれると思う。
 遠山はさらにコミュニケーションをとるのが下手だと難癖をつけて、何人かの芸術家をくびにした。芸術家がコミュニケーションをとるのが下手なのは、当たり前のことである。コミュニケーションをとるのが下手だというのは表向きのことで、実のところは遠山がファンになったユング心理学の思想に適合しない芸術家を粛清したのではないかと思う。ユングファンになると、このように舞い上がって前後の見境がなくなる(つまり、自我を失う)。ユング心理学は、恐ろしい心理学である。この場合は、信用毀損罪か威力業務妨害罪になるだろう。このように遠山敦子は、やっていいこととよくないことの区別ができないのである。
 現実的な行動となって表出されてはいない衝動にばかり目を向けているのが、ユング派であり精神分析学派(フロイト派)の一部である。こうして、自我を失うわけである。“Jungian”やユングファンになると、自我を喪失してしまう。そうなると、実に恐ろしいことになる。

2015年1月14日水曜日

補足のつづき

補足(http://gorom2.blogspot.com/2015/01/9.html)のつづき

 遠山敦子、目を覚ませ(9)(http://ameblo.jp/dwuu/entry-11973725313.html)の“名誉毀損”についてですが(赤字の箇所ではありません。青字に変えておきました)、信用毀損罪か業務妨害罪に該当するとみたほうがよいかもしれません。訂正します。
 最近、法律のことばかり述べておりますが、これも遠山さんが法律や規則について、あまりお詳しくないようにお見受けしたからです。他意は、ございません。私も遠山さんと同様に、法律は苦手なのですから。

遠山敦子、目を覚ませ(9)の補足

 遠山敦子、目を覚ませ(9)に前回、書き換えをしましたが(http://gorom2.blogspot.com/2015/01/blog-post_14.html)、若干、補足しておきます。
 器物損壊罪については、ひとつ難しい問題があります。無体物(形のない物)である演劇活動を、客体である物として裁判所が認めてくれるかどうかです。おそらく判例はないでしょう。しかし電気でさえも、財物なのです。法律を離れて、素直に考えてみてください。財産的価値以上の価値がある演劇活動を、客体である物と認めても差し支えないのではないでしょうか。裁判所はきっと、通説をくつがえしてでも器物損壊罪の成立を認めてくれるでしょう。本当は器物損壊罪どころの話ではない、もっと重大な犯罪事件なのですから。
 
 ユング派なんかを信奉していたら駄目です。集合的無意識とか元型とかという、ありもしない妄想体系にとり憑かれるから、自我を失ってしまうのです。自我を失えば、これはもう“きじるし”でしかありません。ユングファン、河合隼雄ファンの作家、村上春樹を御覧ください。“きじるし”としか言いようがないではありませんか。

 心の深層が癒すのではありません。間違えないでください。その微弱なかすかな力弱い治癒力が働くためには、どうしても自我の助けが必要です。ユング派のように、例外なく自我を失っていては駄目だということです。“きじるし”になるだけです。そうして、もっと強力な薬を、と躍起になって、結局、悪魔から“安寧”をもらうことになってしまいました。
 自我を失ってしまったら、法律家にも官僚にも政治家にもなれません。ましてや、心理学者や芸術家にもなれません。これは当然でしょう。

(「OCEAN」 January 12, 2015)

書き換えました

 表現が曖昧なところを訂正しました。赤いフォントの箇所。1箇所のみ。
遠山敦子、目を覚ませ(9)
http://ameblo.jp/dwuu/entry-11973725313.html

 なお、当サイトには姉妹サイトがあることをご存知でない方もいらっしゃるようなので次のURLをお知らせします。
真幸くあらばまたかへり見む(OCEAN)
http://ameblo.jp/dwuu/

(「OCEAN」 January 10, 2015)

2015年1月5日月曜日

時効による消滅はなかった

 A大学での詐欺事件(『ユング心理学批判』「各大学関係者の皆さんへ」http://moriyamag.blogspot.com/2014/05/blog-post.html)は、時効によって消滅したものと思い込んでいた。しかし、それは間違いだったようである。
 A大学にいくら訴えても無視する。これは、詐欺犯罪事件に加担しているのと同じである。一度は死んだかに見えたものが、これで蘇ったのである。A大学の学長か理事長は、A大学の学内で発生した犯罪事件の従犯になった。学長か理事長も犯罪者の仲間入りをすることになったのである。
 だが、以上のようなことを考えるまでもなく、時効による消滅はなかったのである。A大学における詐欺事件を皮切りにして、ユング派によるストーカー行為が始まった。このストーカー行為は、詐欺事件以来、今に至るまで継続している。つまり、あの犯罪が今も継続中だということになる。だから、時効消滅なんかありえなかったのである。
 これで刑事告訴ができる。ただし問題は、僕が証拠を集めることができるか、ということである。また、警察がまともに協力してくれるかどうかということも心配である。そして何よりも、金がない。弁護士費用なんか、とても払えない。
 ああ、つらいのう。それを言うな横山。おぼっちゃまは、つらい。

2015年1月4日日曜日

自我を失ったら2

 心理学、とりわけ臨床心理学において最も重要な概念は自我(ego, Ich)である。ユング心理学が外国(アメリカ)から移入されて日本で幅を利かせるようになって、この自我をないがしろにする傾向が生じてきた。始祖であるC・G・ユング(Carl Gustav Jung)もユンギアン(Jungian)たちも自我のない者ばかりである。集合的無意識とか元型といったありもしないものを前提にするから、自我を失うのである。それとともに、現実をも失う。現実から引き離される、と言ったほうが適当かもしれない。誰かと話していたとしても、目の前の人と談話しているのではない。影とかアニマとかというものを相手に投げかけて(つまり、投影して)、その投げかけた自分自身の影と話しているのである。目前の生身の人は遥か遠くに消え失せる。これは自己愛(narcissism)である。
 自己愛という用語は、それ自身、自己撞着している。愛とは、他者に対する感情である。自己に対する愛などというものはない。自分に対するいとおしさや嫌悪感はあるにしても、自分への愛はないのである。だから、自己愛は愛ではない。同様に、同性愛も愛ではない。また、略奪愛も、そこには何か自己愛的なものが認められるので、愛ではない。
 好きになった女性が人妻だということが判明した。どうするか。ワーグナーは、そんなことはお構いなしに何かに憑かれたような顔をして自分の“恋”をつらぬこうとする。バッハは、あきらめてさっさと引き返す。ブラームスは、基本的にはバッハ的である(『ユング心理学批判』「バッハとブラームスとワーグナー」http://moriyamag.blogspot.com/2013/10/blog-post_28.html)。この三者の行動のしかたの違いは、彼らの衝動の違いではなくて彼らそれぞれの自我の違いである。
 衝動があったとしても、それを現実行動に移さなければ衝動がないのと同じである。問題なのは、衝動があるかどうかということではない。たとえ、ある衝動があったとしても、それを実行に移すかどうかということなのである。実行に移すかどうかということを決めるのが自我である。
 魔がさして万引きした人がいるとしよう。世の中には、万引きしたいなと、ときに感じる人が結構いるのではないかと思われる。しかし、その衝動は、ほとんどの人は実行には移さないのである。それは、自我がちゃんとしているからである。魔がさしたという人は、その時、自我がどうかしていたのだろう。
 自我という用語は、フロイト(Sigmund Freud)の精神分析の用語である。フロイトの最大の功績は、無意識を発見したことではない。ユング派は、そのように考えているだろうけれども。フロイトの最も大きな功績は、自我という概念を明確にしようとしたことである。
  A大学で詐欺犯罪に遭ったわけであるけれども、あのときにK教授とO教授以外の人物から、妙なことを仕掛けられた。非常勤講師としてA大学に来ていた酒井汀である。A大学は、“西”のほうが設立した大学だが、酒井汀は“東”が設立した大学の教授であった(仮に、B大学とする)。
 僕はそれまで、酒井汀には会ったことがない。一面識もなかったのである。ところが酒井汀は僕に向かって、子どもと“達磨さんのにらめっこ”をするかのように顔をくちゃくちゃにしかめてみせたのである。一瞬、恐怖を感じた。こちらは相手のことを知らないのに、むこうは僕のことをよく知っている。これは、やはり怖い。
 自我(Ich)が失われてしまっている、もしくは自我に重大な損傷が生じている、というのがこのユング派(Jungian)の酒井汀についての印象である。ユング派には、おしなべて自我がない。本当に気持ちが悪かった。昔から“きじるし”と呼ばれている人は、見ると不快感を催すのである。
 “西”が設立したA大学は、宗教を侮蔑するユングの思想をもって学内で詐欺犯罪を犯したK教授とO教授を何故だか庇っている。“東”が設立したB大学は、ユング派を雇っている。“東”も“西”も、もう駄目だということか。現代に何の意味もなくなってしまった教学にしがみつき、葬式のときに心のこもっていないお経を読むことでしか生活費を稼ぐことができない、いわば社会のお荷物たちの寄せ集めの教団が設立した大学には社会的な意義なんかないということか。だから、A大学もB大学も、何の研究業績もあげられない無能な教授ばかり雇っているのである。これでは、高等学校の延長ではないか。名ばかり大学である。もしも僕が、どこかの大学に雇われたとして、2年くらい勤めてみて自分には研究業績をあげる能力がないと見極めをつけたら、さっさと辞表を書くだろう。能力もないくせに、その仕事にしがみつくことは、矜持を失うことであり、社会に対する背信行為である。さっさと辞めることが社会的責任を果たすことになり、社会人としての誇りをなくさないことにもなる。A大学もB大学も、社会的な不具者の集まりではないか。だから、学内で起きた犯罪の実行犯を庇う。自分たちを見下しているユング派を雇用するのである。情けない大学だ。
 「何をぬかすか、無能教授の集まりの大学だと?」と、反論してみるがいい。「S聖人の教えは永遠だ」と反論すればよいではないか。そんな元気もなくなったのか。やはり、もう駄目なのかな。
 遠山敦子が新国立劇場理事長であったときに行ったことは、権力を笠に着た越権行為であるけれども、自我を失ってしまったか、もしくは自我に重大な損傷のある人物の行為である(「天下り理事長代わるか? 新国立劇場人事に芸術界注目」(http://www.asahi.com/special/minshu/TKY201101050330.html)
(asahi.com 朝日新聞2011年1月6日付))。芸術家の首を絞めるような、反文化的・反社会的行為である。犯罪に等しい。せっかく官僚という立派な“identity”を確立していたのに、そうして官僚として成功し大臣にもなったのに、それでもまだ不服だったのか。どうして、官僚以外のものになりたかったのか。なんの芸術的素養もセンスもないにもかかわらず。そのために、せっかく確立していた官僚の“identity”さえも危機に瀕することになったではないか。こうして自我をなくしたような反社会的な行動を行ったのである。遠山敦子が新国立劇場理事長であったときに行ったことは、“identity”が崩れてしまっていたことを示すと同時に、自我が崩れてしまっていたことをも表している。
 官僚以外のものになりたくなったのなら、どうして辞職しなかったのか。官僚の“identity”と芸術家の“identity”は、ひとりの人物の中では両立不可能である。どちらか一方だけを取らなければならない。そんなに芸術家になりたくなったのなら、官僚を辞職しなければならないのである。そうしないから、おかしくなった。新国立劇場理事長のときに行ったことは、自我をなくした人に特徴的な行為であり、狂っているとしか言いようがない。“identity”に混乱をきたすと、えてしてこうなる。
 河合隼雄は、“ウソツキ退職”という詐欺犯罪を犯し、日本臨床心理学会で河合が行なった子どもに対する心理検査の取り扱いの非人間性を批判されると学会を飛び出した。河合はこのように非人間的で反社会的な人物であるにもかかわらず、日本の子ども全員に配布される道徳の副教材“心のノート”の作成を依頼されると、固辞することもなく、ほいほいと引き受けた。まともな人間なら、「私は非人間的で反社会的な人間ですから」と断るはずである。なんと偽善的なのだろう。そして、これは河合の自我が崩れていることを表している。また、河合が“ウソツキ退職”したことは、以前の“identity”を精算することに失敗したことを意味している。一度、前の“identity”をチャラにしてから、臨床心理学者の“identity”を再確立しなければならないのに、“ウソツキ退職”によって前の勤務高校の影を引きずらなければならなくなったために、“identity”の再確立が困難になったわけである。“identity”が混乱しているものは、碌な仕事ができない。
 氏原寛は、下手糞なひどい文章しか書けないくせに、作家になりたいと心理学関係の自分の著書で公言した。それから20~30年たったが、作家になったという話は聞いたことがない。また、やはり著書でカウンセリングを受けていることも公言している。自我がめちゃくちゃになっているのである。
 ユングを批判していた“Richard Noll”の“THE ARYAN CHRIST”を日本語に翻訳したのは、なんとユング派なのである。ユング批判の矛先も鈍るであろうし、適当に内容を改変もしているだろう。気味の悪いやつだ。
 ユング派は、本当に気持ちの悪いやつらだ。自我の壊れた“きじるし”は、本当に気持ちが悪い。ユング心理学は、精神病になるための心理学である。

2015年1月3日土曜日

法律書を読めば

 「法律書を読むのが苦痛でならない」という意味のことを、三島由紀夫がどこかで書いていた。三島は学習院大学法学部の卒業である。大学に入学するときに、学部を間違えてしまったという悔しさが滲み出ている言葉である。
 法律書は重要な書物である。これは大前提である。しかし法律書を読むことは、文学者や芸術家にはとても耐えられないことなのである。法律書の文章の流れが、自己の内的な流れとあまりにも食い違いすぎていて、齟齬をきたすからだろうと思う。だから、法律家や官僚・政治家と芸術家とは人種が違う、としか言いようがない。法律家や官僚・政治家と芸術家の“identity”は、ひとりの人間の中では、とても両立しえないのである。ただ、法律家と推理作家(または、通俗小説・大衆文学の作家)の“identity”なら両立することができる。たとえば、赤かぶ検事シリーズの著者である。しかし、僕も大好きな推理小説は芸術ではないだろう。
 芸術は万人のものではない。世の中には、芸術なんか何の腹の足しにもならないし、つまらないものだと、半ば軽蔑の念をもって眺めている人がたくさんいる。芸術愛好者よりも、そのほうがはるかに数が多いだろう。それが、どうしていけないのか。世の中には、“人種”の違う人間がいる。これは当たり前のことではないか。人の個性の問題なのである。人の優劣の問題なのではない。第一、芸術家と弁護士と、どちらが優れているかと問われれば、弁護士のほうが優秀であると答える人が圧倒的に多いであろう。
 ユング派は、なぜ芸術家気取りをしたがるのか。まったく不思議である。黄色人種であるのなら、それで満足して自足しておればよい。それを、何を好き好んで顔や腕に白粉を塗りたくって、“俺は白人だ”とうそぶくのか。そんなものは、一度シャワーを浴びれば流れ落ちてしまうのだ。
 村上春樹が純文学の作家なのか、大衆文学(通俗小説)の作家なのか、よく考えてもらいたい。芥川賞を受賞しているではないか、ということは村上が純文学作家であると看做すことの根拠にはならない。だいたい芥川賞作家の中に、何人まともな純文学作家がいるのか。たとえば、石原慎太郎や田中康夫を思い浮かべてみるがいい。たった一作の“まぐれ”で芥川賞作家になった。その知名度を最大限に利用して、身分不相応な政治家に転向してしまった。石原慎太郎の場合は、それに加えて、“親の七光り”ならぬ“弟の七光り”も手伝った。そもそも、政治家と芸術家との“identity”は両立しえないものなのである。彼らが政治家になったのは、彼らが偽文学者だったからである。「太陽の季節」も「なんとなくクリスタル」も、とても文学作品とは呼べないではないか。芥川賞も罪深いことをしているものだ。結局、少なくともふたりの人間の人生を誤らせてしまったのである。そして、そのために何人の真の文学者が消えていったのだろう。だいたい芥川賞の選考委員に、何人のまともな文学者がいるというのか。いや、非常に悲観的なことを言わせてもらうと、そもそもまともな文学者というものは、このような選考委員にはならないものだということである。偽文学者を、おだてて舞い上がらせているだけではないか。これは、僕が芥川賞を受賞することができないから、言っているのではない。もしかしたら、そうかもしれないけれども。
 ユング派の芸術に対する嗜好は、文学の世界で言えば、純文学に対するものではなくて大衆文学・通俗小説に対する嗜好である。ユングファンの村上春樹の作品も純文学作品ではない。ちょっと考えてみればわかることではないか。村上春樹の作品を絶賛している人々というものは、純文学や芸術とは何の縁もない人種の人々ではないか。

2015年1月2日金曜日

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“Ave Maria”の補足
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