2015年1月4日日曜日

自我を失ったら2

 心理学、とりわけ臨床心理学において最も重要な概念は自我(ego, Ich)である。ユング心理学が外国(アメリカ)から移入されて日本で幅を利かせるようになって、この自我をないがしろにする傾向が生じてきた。始祖であるC・G・ユング(Carl Gustav Jung)もユンギアン(Jungian)たちも自我のない者ばかりである。集合的無意識とか元型といったありもしないものを前提にするから、自我を失うのである。それとともに、現実をも失う。現実から引き離される、と言ったほうが適当かもしれない。誰かと話していたとしても、目の前の人と談話しているのではない。影とかアニマとかというものを相手に投げかけて(つまり、投影して)、その投げかけた自分自身の影と話しているのである。目前の生身の人は遥か遠くに消え失せる。これは自己愛(narcissism)である。
 自己愛という用語は、それ自身、自己撞着している。愛とは、他者に対する感情である。自己に対する愛などというものはない。自分に対するいとおしさや嫌悪感はあるにしても、自分への愛はないのである。だから、自己愛は愛ではない。同様に、同性愛も愛ではない。また、略奪愛も、そこには何か自己愛的なものが認められるので、愛ではない。
 好きになった女性が人妻だということが判明した。どうするか。ワーグナーは、そんなことはお構いなしに何かに憑かれたような顔をして自分の“恋”をつらぬこうとする。バッハは、あきらめてさっさと引き返す。ブラームスは、基本的にはバッハ的である(『ユング心理学批判』「バッハとブラームスとワーグナー」http://moriyamag.blogspot.com/2013/10/blog-post_28.html)。この三者の行動のしかたの違いは、彼らの衝動の違いではなくて彼らそれぞれの自我の違いである。
 衝動があったとしても、それを現実行動に移さなければ衝動がないのと同じである。問題なのは、衝動があるかどうかということではない。たとえ、ある衝動があったとしても、それを実行に移すかどうかということなのである。実行に移すかどうかということを決めるのが自我である。
 魔がさして万引きした人がいるとしよう。世の中には、万引きしたいなと、ときに感じる人が結構いるのではないかと思われる。しかし、その衝動は、ほとんどの人は実行には移さないのである。それは、自我がちゃんとしているからである。魔がさしたという人は、その時、自我がどうかしていたのだろう。
 自我という用語は、フロイト(Sigmund Freud)の精神分析の用語である。フロイトの最大の功績は、無意識を発見したことではない。ユング派は、そのように考えているだろうけれども。フロイトの最も大きな功績は、自我という概念を明確にしようとしたことである。
  A大学で詐欺犯罪に遭ったわけであるけれども、あのときにK教授とO教授以外の人物から、妙なことを仕掛けられた。非常勤講師としてA大学に来ていた酒井汀である。A大学は、“西”のほうが設立した大学だが、酒井汀は“東”が設立した大学の教授であった(仮に、B大学とする)。
 僕はそれまで、酒井汀には会ったことがない。一面識もなかったのである。ところが酒井汀は僕に向かって、子どもと“達磨さんのにらめっこ”をするかのように顔をくちゃくちゃにしかめてみせたのである。一瞬、恐怖を感じた。こちらは相手のことを知らないのに、むこうは僕のことをよく知っている。これは、やはり怖い。
 自我(Ich)が失われてしまっている、もしくは自我に重大な損傷が生じている、というのがこのユング派(Jungian)の酒井汀についての印象である。ユング派には、おしなべて自我がない。本当に気持ちが悪かった。昔から“きじるし”と呼ばれている人は、見ると不快感を催すのである。
 “西”が設立したA大学は、宗教を侮蔑するユングの思想をもって学内で詐欺犯罪を犯したK教授とO教授を何故だか庇っている。“東”が設立したB大学は、ユング派を雇っている。“東”も“西”も、もう駄目だということか。現代に何の意味もなくなってしまった教学にしがみつき、葬式のときに心のこもっていないお経を読むことでしか生活費を稼ぐことができない、いわば社会のお荷物たちの寄せ集めの教団が設立した大学には社会的な意義なんかないということか。だから、A大学もB大学も、何の研究業績もあげられない無能な教授ばかり雇っているのである。これでは、高等学校の延長ではないか。名ばかり大学である。もしも僕が、どこかの大学に雇われたとして、2年くらい勤めてみて自分には研究業績をあげる能力がないと見極めをつけたら、さっさと辞表を書くだろう。能力もないくせに、その仕事にしがみつくことは、矜持を失うことであり、社会に対する背信行為である。さっさと辞めることが社会的責任を果たすことになり、社会人としての誇りをなくさないことにもなる。A大学もB大学も、社会的な不具者の集まりではないか。だから、学内で起きた犯罪の実行犯を庇う。自分たちを見下しているユング派を雇用するのである。情けない大学だ。
 「何をぬかすか、無能教授の集まりの大学だと?」と、反論してみるがいい。「S聖人の教えは永遠だ」と反論すればよいではないか。そんな元気もなくなったのか。やはり、もう駄目なのかな。
 遠山敦子が新国立劇場理事長であったときに行ったことは、権力を笠に着た越権行為であるけれども、自我を失ってしまったか、もしくは自我に重大な損傷のある人物の行為である(「天下り理事長代わるか? 新国立劇場人事に芸術界注目」(http://www.asahi.com/special/minshu/TKY201101050330.html)
(asahi.com 朝日新聞2011年1月6日付))。芸術家の首を絞めるような、反文化的・反社会的行為である。犯罪に等しい。せっかく官僚という立派な“identity”を確立していたのに、そうして官僚として成功し大臣にもなったのに、それでもまだ不服だったのか。どうして、官僚以外のものになりたかったのか。なんの芸術的素養もセンスもないにもかかわらず。そのために、せっかく確立していた官僚の“identity”さえも危機に瀕することになったではないか。こうして自我をなくしたような反社会的な行動を行ったのである。遠山敦子が新国立劇場理事長であったときに行ったことは、“identity”が崩れてしまっていたことを示すと同時に、自我が崩れてしまっていたことをも表している。
 官僚以外のものになりたくなったのなら、どうして辞職しなかったのか。官僚の“identity”と芸術家の“identity”は、ひとりの人物の中では両立不可能である。どちらか一方だけを取らなければならない。そんなに芸術家になりたくなったのなら、官僚を辞職しなければならないのである。そうしないから、おかしくなった。新国立劇場理事長のときに行ったことは、自我をなくした人に特徴的な行為であり、狂っているとしか言いようがない。“identity”に混乱をきたすと、えてしてこうなる。
 河合隼雄は、“ウソツキ退職”という詐欺犯罪を犯し、日本臨床心理学会で河合が行なった子どもに対する心理検査の取り扱いの非人間性を批判されると学会を飛び出した。河合はこのように非人間的で反社会的な人物であるにもかかわらず、日本の子ども全員に配布される道徳の副教材“心のノート”の作成を依頼されると、固辞することもなく、ほいほいと引き受けた。まともな人間なら、「私は非人間的で反社会的な人間ですから」と断るはずである。なんと偽善的なのだろう。そして、これは河合の自我が崩れていることを表している。また、河合が“ウソツキ退職”したことは、以前の“identity”を精算することに失敗したことを意味している。一度、前の“identity”をチャラにしてから、臨床心理学者の“identity”を再確立しなければならないのに、“ウソツキ退職”によって前の勤務高校の影を引きずらなければならなくなったために、“identity”の再確立が困難になったわけである。“identity”が混乱しているものは、碌な仕事ができない。
 氏原寛は、下手糞なひどい文章しか書けないくせに、作家になりたいと心理学関係の自分の著書で公言した。それから20~30年たったが、作家になったという話は聞いたことがない。また、やはり著書でカウンセリングを受けていることも公言している。自我がめちゃくちゃになっているのである。
 ユングを批判していた“Richard Noll”の“THE ARYAN CHRIST”を日本語に翻訳したのは、なんとユング派なのである。ユング批判の矛先も鈍るであろうし、適当に内容を改変もしているだろう。気味の悪いやつだ。
 ユング派は、本当に気持ちの悪いやつらだ。自我の壊れた“きじるし”は、本当に気持ちが悪い。ユング心理学は、精神病になるための心理学である。