確かに自我(ego Ich)には人を癒す力があるようである。「自我を失ったら3」(http://gorom2.blogspot.com/2015/01/blog-post_16.html)の第4段落、「自分の内に、何か醜悪で恐ろしい衝動があると思っておびえていたとしても、毎日決まった時間に起き、決まった時間にきちんと会社に出勤して、ちゃんと仕事していれば、そんな衝動なんかないのと、どこが違うのか。自我さえ正常に働いておれば、それでよいではないか。」と書いたことと並べて考えてください。
たとえ何か醜悪な衝動が心の内にあるのを感じ、そしてそれが病的なものだったとしても、毎日なすべきことをきちんとやっておれば、これを治癒と看做してどこがいけないのか。
ユング心理学は、この自我の治癒力の方向とは逆の方向を向いているのである。
徒然草に次のような一節がある。
「狂人の真似だといって大通りを走っていれば、その人は確かに狂人である。おれは人殺しの真似をしているだけなのだ、といいながら人を殺めれば、その人は間違いなく殺人者である。」(第八十五段から。現代語訳は森山梧郎)
徒然草(Essays in Idleness)は、日本の古典である。14世紀前半に成立した。作者は、“Kenkou Houshi”。その文章力は、日本人の中でも指折りの名文家であるといってもよい。人生に対する深い観照的態度、そして人間に対する旺盛な興味と好奇心、また、あらゆるものに対する鋭い観察力には抜きん出たものがある。まだ自我の概念が確立するはるか昔に、自我について、こんなに深く考察していた人がいたとは驚きだ。
“Kenkou Houshi”は続けて言う。
「もしも名馬(a good horse)の後について行って、その名馬の真似をしている馬がいたとすれば、その馬に『お前は立派な馬だ。確かにお前も名馬だよ』と誉めてやってもよい。君主の中に、中国古代の名君主である舜(Shun)に習い、模倣しようとしている君主がいたとすれば、この君主もやはり紛れなく名君(ruler of virtue)なのである。たとえ偽りであっても、つまり、それが表面上のことであり格好だけのものであっても、賢い人に学び模倣しようとすれば、その人はやがて本物の賢人になっていることだろう。」(第八十五段から。現代語訳は森山梧郎)
“Kenkou Houshi”は、世捨て人(隠遁者 a hermit)であった。仏教の修行のために、家を捨て、家族を捨て、世の柵(しがらみ)をすべて断ち切ったのである。この時代には、このような世捨て人がたくさんいた。彼らはみんな、超越的世界と何らかの関わりを持とうとするなら、名誉も、出世も、財産も、家族との絆をさえも捨て去り断ち切らなければならないことをよく承知していたのである。そうでなければ、超越的世界との関係が汚れてしまうのである。
ユング派は、必死になって狂人や犯罪者の真似をしている人々である。世の中の、どこにでもいる目立たない、普通の慎ましい平凡な人々の真似をしていれば、それでよいのである。自我の基本は、世の普通の平凡な人々と同じように行動し、生きていこうと決意することである。自分の内にある醜悪で恐ろしい衝動に、とらわれすぎないことが大切である。無視せよ、というのではない。そこにあるのを認めながら、捕らわれないということである。“それ”がそこにあるのを意識していながら、“それ”に振り回されないということである。これは、仏教の悟り(satori or enlightenment)の境地に通じる心のあり方ではないだろうか。
ユング派は、“それ”に振り回されているのである。これこそが“きじるし”なのであり、これを精神病という。皆さんは、精神病について、何か大きな勘違いをしていませんでしたか。