2015年1月16日金曜日

自我を失ったら3

(書き加えた箇所が二箇所あります。新しく書いた、緑のフォントにした「審判に」は野球の投手の話のところにあります(第2段落)。たったこれだけの語ですが、大事なことではないかと考えました。昨日書き入れた青いフォントの箇所は、第8段落にあります。

 ある人が本屋の棚を見上げて、「ああ、あの本ほしいな」と一瞬、思ったとしよう。書棚を整頓するふりをして傍にいた本屋の店員が、じっとその客の様子や振る舞いを観察していて、「ちょっとお客さん。お客さんは今、万引きしてやろうと考えていたでしょう」と、その客の腕をつかんで本屋の事務室に引っ張っていき、そして、心に邪悪な願望を抱いている悪者をとっ捕まえてやったのだと自慢していれば、誰もが「この店員、頭がおかしいのではないか」と考えるだろう。そうなのだ。たとえ、ある衝動があったとしても、その衝動を現実的な行動にしなければ、ないのとおなじなのである。(自我が)それを忘れているこの店員は、やはり“きじるし”なのである。自我(ego, Ich)がぐらつき、危険な状況に陥っている。
 外顕的結果がすべてである。スポーツでも、そうである。野球(baseball)で、ある投手はすばらしい球を投げていたが、味方の内野手のエラーや外野への飛球が風に流されてホームランになって敗戦投手になってしまった。相手方の投手は、これに比べて遅くて力のないボールを投げていたが、相手のエラーや風などに助けられて味方が勝ったために、勝利投手になった。ここで負けたほうの投手は、あんないい球を投げていたのに自分が敗戦投手になるのはおかしい、と審判に文句をいえるだろうか。文句をいうとすれば、この投手も、やはり“きじるし”であるといわねばならない。
 これは、どちらも自我の問題なのである。野球の例の場合は、すばらしい球を投げておりながら、不運のために敗戦投手になってしまった投手よりも、へなちょこ球を投げて出来の悪い投手のように見えていながら、運がよくて勝利投手になった投手のほうが、この試合に関しては上手(うわて)だったのである。これについて、誰も異議申し立てをすることはできない。正常な自我は、これを受け入れる。
 自我は、社会のルールや規範や決まり事や約束事に従う。社会のルールや規範や決まり事や約束事に従うかどうかを決めるのが自我であると言ってもよい。自我の基本的な性質は、世の中のほとんどの、当たり前の普通の正常な人々が行動するのと同じように行動することをえらびとることである。それが正常に行われているのが、世の中のほとんどのまともな人々なのである。自分の内に、何か醜悪で恐ろしい衝動があると思っておびえていたとしても、毎日決まった時間に起き、決まった時間にきちんと会社に出勤して、ちゃんと仕事していれば、そんな衝動なんかないのと、どこが違うのか。自我さえ正常に働いておれば、それでよいではないか。
 これが正常に行われないとすると、深刻な問題が出てくる。
 心の深層に、集合的無意識や元型などという、ありもしないものの存在を想定し、それに拘泥することによって現実をなくし、自我をも失ってしまった。そんなものにばかり目を向けていては、現実がわからなくなるのである。そもそも、ユング心理学の個性化の過程の初期の段階における元型としての“影(shadow)”(自分の内にある悪なるもの)の自我による同化(assimilation)が、彼らの自我の崩落を予言していた。彼らは、社会のルールや規範や決まり事や約束事には従わなくてもよいと考えたのである。そうすると、先ほどの書店の店員や不運によって負けてしまった投手の例のようになってしまう。社会のルールや規範や決まり事や約束事、さらに法律にも従わなくてもよいと考える、実に恐ろしい人間になってしまったのである。
 A大学で詐欺犯罪の被害に遭ったとき、A大学構内でユング派の酒井汀から妙な素振りで驚かされた(「自我を失ったら2」http://gorom2.blogspot.com/2015/01/blog-post_4.html)。“達磨さんのにらめっこ”は、講義中での出来事だったのである。やっていいことと悪いことの区別がついていないのは、幼い子ども並みである。このようなことは、まともな正常な人ならしないものであり、このようなことをすれば相手がどんなに恐怖に陥るか、ということがわからないのだろうか。自我を喪失してしまっているのである。A大学構内で起きた犯罪事件に、B大学からA大学に派遣されていた酒井汀も加担していたのではないかと疑っている。そうすると、B大学にも何らかの責任があるのかもしれない。
 元文部科学大臣の遠山敦子は、ユングファン、河合隼雄ファンになったのだろうけれども、それですっかり舞い上がってしまった。新国立劇場の理事長になったのだけれども、この新国立劇場は私が設立した劇場だといわんばかりに(勿論、遠山敦子が設立したのではない。文部科学省でもない。設立したのは日本国民である)、権限もないのに、しかも自分には何の芸術的素養もないのに、芸術の創作過程に偉そうに口を出した。そして、当該の芸術をめちゃくちゃにしてしまった。この場合は演劇であったのだけれども、たとえば絵を描いている画家のところに行って、「うーん、構図がもうひとつだね。色をもっと明るくしたら?それじゃあね。わたしが代わりに描いてあげよう」と、画家の絵筆を取り上げて作成中のほとんど完成に近づいた絵に、勝手に下手糞な描き込みをするようなものである。これは芸術作品の破壊行為である。電気は、もともと物とは考えられてはいなかった。それを裁判所が電気窃盗の被害の救済措置として、財物と看做していたのである。演劇活動も、物か否かという点では電気と似たような状況にある。類推すればよいわけだ。器物損壊罪か業務妨害罪になるだろう。本当はもっともっと重い犯罪なのだけれども、立法措置はこれぐらいしかとられていないようである。それで、遠山が妨害したのは、演劇活動であったわけだが、絵画作品の場合には罪に問われるけれども、演劇活動の場合には罪に問われないとすれば、あまりにも公平を失する。そのようなことを斟酌して、裁判所は必ず、演劇活動の場合でも器物損壊罪の成立を認めてくれると思う。
 遠山はさらにコミュニケーションをとるのが下手だと難癖をつけて、何人かの芸術家をくびにした。芸術家がコミュニケーションをとるのが下手なのは、当たり前のことである。コミュニケーションをとるのが下手だというのは表向きのことで、実のところは遠山がファンになったユング心理学の思想に適合しない芸術家を粛清したのではないかと思う。ユングファンになると、このように舞い上がって前後の見境がなくなる(つまり、自我を失う)。ユング心理学は、恐ろしい心理学である。この場合は、信用毀損罪か威力業務妨害罪になるだろう。このように遠山敦子は、やっていいこととよくないことの区別ができないのである。
 現実的な行動となって表出されてはいない衝動にばかり目を向けているのが、ユング派であり精神分析学派(フロイト派)の一部である。こうして、自我を失うわけである。“Jungian”やユングファンになると、自我を喪失してしまう。そうなると、実に恐ろしいことになる。