「法律書を読むのが苦痛でならない」という意味のことを、三島由紀夫がどこかで書いていた。三島は学習院大学法学部の卒業である。大学に入学するときに、学部を間違えてしまったという悔しさが滲み出ている言葉である。
法律書は重要な書物である。これは大前提である。しかし法律書を読むことは、文学者や芸術家にはとても耐えられないことなのである。法律書の文章の流れが、自己の内的な流れとあまりにも食い違いすぎていて、齟齬をきたすからだろうと思う。だから、法律家や官僚・政治家と芸術家とは人種が違う、としか言いようがない。法律家や官僚・政治家と芸術家の“identity”は、ひとりの人間の中では、とても両立しえないのである。ただ、法律家と推理作家(または、通俗小説・大衆文学の作家)の“identity”なら両立することができる。たとえば、赤かぶ検事シリーズの著者である。しかし、僕も大好きな推理小説は芸術ではないだろう。
芸術は万人のものではない。世の中には、芸術なんか何の腹の足しにもならないし、つまらないものだと、半ば軽蔑の念をもって眺めている人がたくさんいる。芸術愛好者よりも、そのほうがはるかに数が多いだろう。それが、どうしていけないのか。世の中には、“人種”の違う人間がいる。これは当たり前のことではないか。人の個性の問題なのである。人の優劣の問題なのではない。第一、芸術家と弁護士と、どちらが優れているかと問われれば、弁護士のほうが優秀であると答える人が圧倒的に多いであろう。
ユング派は、なぜ芸術家気取りをしたがるのか。まったく不思議である。黄色人種であるのなら、それで満足して自足しておればよい。それを、何を好き好んで顔や腕に白粉を塗りたくって、“俺は白人だ”とうそぶくのか。そんなものは、一度シャワーを浴びれば流れ落ちてしまうのだ。
村上春樹が純文学の作家なのか、大衆文学(通俗小説)の作家なのか、よく考えてもらいたい。芥川賞を受賞しているではないか、ということは村上が純文学作家であると看做すことの根拠にはならない。だいたい芥川賞作家の中に、何人まともな純文学作家がいるのか。たとえば、石原慎太郎や田中康夫を思い浮かべてみるがいい。たった一作の“まぐれ”で芥川賞作家になった。その知名度を最大限に利用して、身分不相応な政治家に転向してしまった。石原慎太郎の場合は、それに加えて、“親の七光り”ならぬ“弟の七光り”も手伝った。そもそも、政治家と芸術家との“identity”は両立しえないものなのである。彼らが政治家になったのは、彼らが偽文学者だったからである。「太陽の季節」も「なんとなくクリスタル」も、とても文学作品とは呼べないではないか。芥川賞も罪深いことをしているものだ。結局、少なくともふたりの人間の人生を誤らせてしまったのである。そして、そのために何人の真の文学者が消えていったのだろう。だいたい芥川賞の選考委員に、何人のまともな文学者がいるというのか。いや、非常に悲観的なことを言わせてもらうと、そもそもまともな文学者というものは、このような選考委員にはならないものだということである。偽文学者を、おだてて舞い上がらせているだけではないか。これは、僕が芥川賞を受賞することができないから、言っているのではない。もしかしたら、そうかもしれないけれども。
ユング派の芸術に対する嗜好は、文学の世界で言えば、純文学に対するものではなくて大衆文学・通俗小説に対する嗜好である。ユングファンの村上春樹の作品も純文学作品ではない。ちょっと考えてみればわかることではないか。村上春樹の作品を絶賛している人々というものは、純文学や芸術とは何の縁もない人種の人々ではないか。