2015年10月6日火曜日

世界制覇の野望

 ユング派が目指している理想の社会とは、どのようなものだろうか。ユング派という少数のエリート達が、その他大勢の愚民どもを完全に支配する社会である。支配は、愚民たちの一挙手一投足にまで及ぶ。これは、現在の現段階でのITなどの科学技術をもってしてもおそらく可能だろう。ユング派というものは、人間にはすべからく個性がないと考えている(「ミツバチの巣で死神を見た」( http://gorom2.blogspot.jp/2014/12/blog-post_97.html ))。人はミツバチの一匹になる。集合的無意識などという、ありもしない奇矯な概念をたてたのだから、AさんもBさんもCさんもDさんも、心は皆同じなわけである。考えていることも同じようなことであり、感じていることも大体同じなのである。人には違いというものがないのだから、プライバシーなどという余計なものを認める必要はなかろう、というわけである。人には、その人にしかないものがある、それぞれ独自性がある、個性がある、ということを前提にするからこそ、プライバシーという概念が生きてくるのである。ユング派の人々とは、他人にも自分自身にもプライバシーを認めない人々である。ユング派がこのような謀議を仲間内だけでこっそりと行っているというよりも、ユンギアンになればこのようなことを考えてしまう人格傾向になるということである。ユンギアンは、世界中の人々がユング心理学一色に染め上げられたらよいと考えている。新国立劇場で遠山敦子が行ったことを思い出していただければ、成程と納得できるだろう。芸術に関して意見の違う芸術家に、芸術の素人のくせに強圧的な弾圧を加えている。これは、もう専制君主、しかも暴君の所業ではないか。反対意見や少数意見を絶対に認めないのである。そのようなものは、強大な権力を背景にして叩きのめそうとする。場合によっては反対意見の持ち主に精神異常のレッテルを貼って社会から締め出そうとするのである。これはユンギアンになれば、誰しも“必然的に”このような傾向の人格の持ち主になるということである。ここまでユング派がのさばってしまい、権力とも手を握ったようだから、もうユング派に対して打つ手は限らている。本来ならば、やってはいけないことも、せざるをえなくなってしまったようである。遠い遠い昔の記憶が甦ってくる。2千年以上も昔の中国で行なわれたことである。中国古代の秦の始皇帝が行なった焚書坑儒である。ユング派を社会から追放し、ユング心理学関係の心理学書を焼き捨てて、ユング心理学関係の書物を持っているだけで麻薬や覚醒剤の所持と同様に、犯罪に問われるようにしなければどうしようもないところまで来てしまった。でないと、人類の滅亡を防ぐことができないだろう。
 ユング派の大多数の被支配階級の人々に対する支配は、人生でいちばん重要なこと、つまり職業選択と配偶者選択にまでも及ぶ。A君はB子さんと恋仲にあるようだが、ふたりの仲を邪魔して引き離しなさい。かわりに、A君はC子さんと結婚するように仕向けなければならない。それが集合的無意識からの至上命令である。A君は、われわれが再三警告していたにもかかわらず、入りたいD社に就職した。これは、集合的無意識の意向に反する反逆的な蛮行である。A君がD社におれなくなるように取り計らうべきである。そして、A君が退職せざるをえなくなるように追い詰めていかなければならない。このようにA君の就職についても、同様の操作が行なわれる。そして、このような操作・コントロールはA君の人生全般にまで及ばされるのである。このような“愚民”に対する操作やコントロールは、もう既に広範囲で行なわれているはずである。被害者本人が気がつかないだけなのである。特にその被害者が、ユングにかぶれたりなんかしていると、尚更のこと自分がコントロールされていることに気がつきにくい。龍谷大学文学部の小島勝教授は、最初の奥さんを離縁して、後に再婚した。そのとき子どもは中学生か高校生だった。この話を聞けば、誰しも最初の結婚の解消に疑問を感じるだろう。そして、二度目の奥さんは、河合隼雄元京都大学教育学部教授の弟子なのである。ユング派の心理療法家なのだろう。だから、小島勝教授を実行犯とする僕に対する詐欺事件で、小島教授と正犯である河合隼雄と氏原寛の間の橋渡しをしたのが小島教授の新しい夫人だろうと考えている。そして、この小島教授の新夫人には略奪愛の臭いがしなくもない。略奪愛は愛ではない。小島教授は、新しい嫁はんにすっかり感化され洗脳されてしまった。ユング心理学に、のめり込んでしまい、まるで狂信的なカルトの信者のようになってしまった。この新夫人については、名前も顔も知らないのであるけれども、あるひとりの女性ユンギアンの名前が思い浮かんだ。それは、15~30年ほど前に氏原寛と共著で心理学書を出版したひとりの女性カウンセラーの名前である。この女性ユンギアンが、小島教授の夫人であるという証拠は何もない。ただ、可能性として考えただけである。小島教授の再婚にあたっては、河合隼雄か氏原寛が世話をしたのではないかと思う。この上なくお節介なやつらではないか。あたかも他人の人生を私物化しているかのような観がある。ユンギアンというものは、人の人生を完全に掌握し、あたかも自分のものででもあるかのように操作を加えてやろうとするものである。これは、集合的無意識などという人類に共通する無意識なる奇矯な概念をたてたからである。つまり、わたしの内なる集合的無意識は、君の内にあるものと全く同じなのだ。わたしのものと君のものとが同じである以上、わたしが集合的無意識からのお告げによってよいと信じることは、君もよいと信じなければならぬ。その反対の考え方は許されないのだ。だから、わたしは力づくででも君の人生に介入し、君が誤った方向に進むことのないように指導してやろうではないか、ということになる。しかしここで、フロイトの精神分析(いわゆるフロイト派)と違って、ユング派は逆転移を否定しない、ということを思い出してほしい。ユング派の強力な無理強いの他人の人生への支配は、彼らの逆転移によるものである。彼ら自身の内に、未解決の重大な心理学的な問題が存するのである。それは、いま恋に陥っている人や恋愛結婚をした人を見たときに感じる妬ましさ・羨望の感情から変化した敵愾心であるかもしれない。そうして、この恋愛をぶち壊してやろうとする方向に突っ走る。他人の恋愛を邪魔だてすることによって、彼らは癒やされたと感じる。このような逆転移による感情的な反応が、他者の人生の重大な局面において他者を厳しく峻烈に支配しようとしていることに、彼ら自身が気づかないのである。小島勝教授は、僕に対する犯罪事件の実行犯である。向こうから勝手にヘラヘラ笑いながら近づいてきたくせに、詐欺を行なって、僕が抗議しても今度は完全に無視しやがる。以上に書いたようなことは、本当ならブログに書いてはいけないことは当然である。しかし、犯罪の被害に遭った以上、その被害の後始末さえしてくれそうもない以上、書くのもやむをえないと考えた。ただし、これをブログに書くことについては、小島勝教授の了承を得ている。しかし、小島教授は僕がメールを送っても一切返信してくれないのだから、「看做し了承」とでもいったらよいようなものではあるけれども。小島教授は、ああ、そうか、ブログに書きたいなら書いてみろ、そんなことぐらいでわいはな、びくともせえへんわい、とでも言っているかのようである。遠くから眺めていただけではあるけれども、若い頃は少し神経質そうなところはあるにしても真摯で誠実そうな人柄であるとお見受けしていた。ところが、ユング心理学と出会い、おそらくは“個性化”(individualization)を果たしたことによって、人格が激変したのであろう。矢でも鉄砲でも持って来い、という心境になっている。これは、たぶん遠山敦子が名づけた“安寧”がしからしむるところであろう。“安寧”という用語は、おかしい。これは法律用語だろう。安寧秩序の安寧である。“平安”というのが正しい。神の愛による平安、仏を念じることによって得られる平安、とすべきところである。だが、この“安寧”というネーミングには、この語の名づけ親のすさまじい意気込みがこめられているように思われる。“平安”などというような生っちょろいものではないのだ。“安寧”には、もっと激烈な効能があるのである、と。もしかしたら、そうかもしれない。安寧を獲得したら、精神はゆったりとして落ち着いて物事に動じなくなるかのように見えるかもしれない。しかしこの安寧の恩恵を受けているのは、当のその安寧を得たひとりの人だけに限られている。周囲の人たちは、たまったものではないのである。ユング派の押しつけがましさは、人のためを思ってのことではなく、すべて自分だけのための利己的な動機に由来するものである。ユンギアンは、自分の安寧のためには平気で人を地獄に突き落とすようなことをする。平安と安寧との根本的な違いである。
 韓国の民話だったと思う。“生き仏”という題名がついていた。ある仏道修行者は厳しい修行をして、今、生き仏になる一歩手前の境地にまで到達している。もう一息で生き仏になれる。その時、近所に住んでいる子どもだったと思うが、子どもに災いが降りかかる。子どもが災いから逃れるためには、この仏道修行者の助けが必要である。子どもの母親の助けを求める懇願を、修行者は、今、生き仏になるための大事な最終の段階にいるのだ、といって拒否する。すると、その仏道修行者は、生き仏になることができなかったのである。かわりに、この仏道修行者よりも劣った修行者と見られていた修行者が、子どもを助けた。この生き仏になるには、まだまだ修行が足りないと思われていた修行者が、実際に生き仏になったのである。
 これでは大多数を占める被支配階級の人々は、やがてその生命力を失っていくことだろう。病気にかかりやすくなる。常に元気がなく、何事に対しても意欲が湧かなくなる。これは、野生の植物が栽培植物になったときに喪失した生命力と同等のものだろう。また、狼が飼い犬になったときに失ったものとも同じだろう。また、これは栽培植物であるけれども、ほうれん草が本来それが育つ季節(旬)以外の季節に育てられたときに失った生命力ともいえるだろう。この場合のほうれん草は、野生でなくなったときと、ビニールハウスで育てられたときの二度、この大きな災難に直面させられたのである。もう瀕死の状態であるといってもよい。以前に、蜜蜂が一匹近寄ってきて、まとわりついてきて困ったことがある。そのうちに、その蜜蜂は前に置いてあった壷の中に自分で入っていき、水に溺れて死んでしまった。鈍重で間抜けな蜂だと思った。もしかしたら、養蜂家が蜂蜜を採取するために飼っていた蜜蜂であったかもしれない。人に飼われているために、生命力が減退したか、ほとんど失われてしまっているのである。ユング派が世界を支配するようなことにでもなれば、死の世界が訪れてくるのである。
 これでは人類の滅亡は近いといわなければならないだろう。

時効完成否定理論」( http://gorom2.blogspot.jp/2015/10/blog-post.html )に少し書き加えました。後ろのほうの紫の背景箇所。