時効とは、本当に忌まわしい制度である。初めてこれを考え出したのは、ドイツ人の法学者であろうが、お節介な余計なことをしてくれたものである。社会的安定性が根拠になっているようだが、間違った方向で安定してしまっているのである。何故もとの正しい状態に戻してはいけないのか、その理由が分からない。近年、時効を廃止する趨勢にあるようだが、たいへん結構なことである。
「遠山敦子の犯罪」( http://gorom8.blogspot.jp/2015/09/blog-post_4.html )
遠山敦子の犯罪の罰条に、職権濫用罪を追加する。理事長といえども、新国立劇場で公演される芸術作品の内容にまで介入する権限はないはずである。また、芸術監督3人を一時(いちどき)に交代させたことは、極めて異常な事態である。その交代の理由が、遠山敦子の主観的で個人的な単なる思い込みから導き出されたものであることを推定せざるをえない。表向きの理由は、これらの芸術監督とはコミュニケートできないということであったが、社会人であり大の大人である3人の芸術監督に対して、あまりにも愚弄した名誉を傷つけ人格をも傷つける言葉である。遠山敦子の品性・人格を疑わしめる表現である。これは、芸術に対する見方・考え方が自分と異なる芸術家に対して、遠山が理事長という職権を利用して激しい敵愾心と侮蔑の念をもって行なった弾圧である。ユング心理学に夢中になり、その信奉者になった遠山は、ユング心理学の非人間的な特徴を反映して、遠山の人格も極めて非人間的なものになってしまっている。本来的には遠山敦子は、芸術に対して侮蔑の念を抱いていると考えられる。芸術や芸術家に対して侮蔑する感情を抱いておりながら、自分を芸術家だと思い込んでしまったのは実に奇怪なことであった。芸術監督3人を交代させたことも、職権濫用罪に該当する。さらに、名誉毀損罪にも該当する。
また、器物損壊罪は親告罪である。だから僕がいくら、これは犯罪だと騒いでいても聞き届けてもらえないのである。何とかしなければいけない。
しかし、遠山敦子の犯罪の多くは、既に公訴の時効が完成していると考えられる。そこで、この時効の壁を突破するために、時効による消滅を否定する理論を構築中である。これは、もともと僕自身の被害が時効の完成によって訴える権利が消滅しているのを何とかしようとして思いついたものだった。遠山敦子の犯罪のケースにも、やや難しそうな点はあるにしても、適用は可能なのではないかと思われる。犯罪のある特殊なケースに適用しうる時効消滅消滅理論(これは面白いネーミングではあるけれども、あまり適切ではない。“時効完成否定理論”としたほうがよいかもしれない)という。理論といっても、そんなに大仰なものではなく、ちょっと見方・視点を変えただけである。それで、僕に対する犯罪事件や遠山敦子の犯罪が、まだ公訴の時効が完成していないことを立証しようというものである。僕の性格を反映してか、たいへん偏屈でひねくれた理論となっている。裁判所が認めてくれる確率は、50パーセントぐらいか。ただ、これはあらゆる犯罪事件に適用できるものではなく、一部のケースにのみ可能である。
創価学会池田名誉会長のレイプ事件にも適用可能であると考えられる。被害者の女性は事件後、はなはだしい精神的苦痛を抱えたまま生きることを強いられた。そのような精神状態のときに、告訴などということがどうして思い浮かぶだろうか。ただ生きていることが精一杯なのである。死の谷をさまよっているのである。そうして時間だけがどんどん過ぎ去っていき、はっと気がついたときには、もう時効によって消滅してしまっている。創価学会の信者の半数くらいは女性だろう。そのたくさんいる女性信者までもが、自分と同じジェンダーの被害者女性をさらに痛めつけているのが不思議でならない。創価の女性信者たちは何を考えているのだろう。ユング心理学と同じように、創価学会は自己の内なる罪の意識の息の根を止めてやろうと画策する邪教である。
ユング派の世界制覇の野望は、まず文化的宗教的な方面から達成に向けて着手される。そのプロパガンダの最前線に立っているのが、村上春樹であり宮崎駿である。僕はどうやら、このプロパガンダの旗手に抜擢されようとしたらしい。冗談ではない。誰がそんなピエロみたいなものになってやるか(「芸術暗黒時代」( http://gorom2.blogspot.jp/2015/09/blog-post_26.html ))。その次に政治的な分野に触手を伸ばすわけであるが、これももう既に行なわれている。小泉純一郎元首相や遠山敦子元文相は、ユング心理学や河合隼雄にすっかり参ってしまい惚れこんでしまった。そして、ユング派の野望の達成のための現実的な手段は、年をおうごとに洗練され高度化されているようである。それはIT技術の飛躍的発展の成果をも取り入れたものになっているようである。もう、あからさまな脅迫とか詐欺といった幼稚で拙劣な手段は用いられなくなったようである。そのために僕は、龍谷大学での詐欺・脅迫事件以降は、僕に対する虐待の証拠をあげることができなくなった。大きな組織が個人を執拗に付け狙って犯罪・違法行為さえ行っているのに、急に何の理由もなく大波が退くようにさっと手を引くことがありうるだろうか。今は、世界中どこにいても、インターネットに接続していなくても、スマートフォンで自分の位置情報を正確に把握できる時代なのである。また、そのインターネット自体は、何者かによって完全に支配されコントロールされていると感じる(「インターネットは誰かに支配されているのか」 http://moriyamag.blogspot.jp/2014/02/blog-post_12.html )
。このインターネット支配は、ごく一部のひとのWebサイトを標的にするだけで目的を達成することができる。料理のレシピや家庭園芸のサイトを操作してみたところで、なんにもならないのである。そのような人畜無害の大部分のサイトは野放しにされている。これはと思ったサイトだけを標的にすればよい、ということになる。そうすると、インターネットがおかしいと感じている人が勇をふるって被害を訴えたとしても、何を訳の分からぬことを言っているのか、ちょっと頭がおかしいのではないか、と逆に反撃され押さえつけられてしまうことになる。そして、このようにストーカー行為の手段が高度化すれば、ターゲットになる個人が多数いても可能だということにもなる。