2015年9月29日火曜日

集合的無意識なんかなかった(2)

集合的無意識なんかなかった」( http://gorom2.blogspot.jp/2014/12/blog-post_11.html )

 無意識というものがあるということを認めるにしても、フロイトまでなら許せるけれども、ユングとなると許すことができません。フロイトが提唱した無意識は、個人的無意識です。これは、人が生まれて以来、その人が経験したことが材料になっています。つまり、個人的な経験が基になっているわけです。そこで、Aさんの無意識(個人的無意識)とBさんの無意識(個人的無意識)とは、AさんとBさんとでは経験したことが違うわけですから、Aさんの無意識とBさんの無意識とは異なるはずだ、ということになります。とはいうものの、無意識の内容の全てがAさんとBさんとでは完全に違うのかというと、そうでもありません。AさんとBさんがそれぞれ経験したものの中には、非常によく似ている経験、もう同じだといっても構わないような経験もあるはずなのです。これをAさんとBさんのふたりだけに限定しないで、他の人にもおしひろげて考えてみても同じことです。そうすると、Aさん、Bさん、Cさん、Dさんのみんなに共通している無意識の内容もあるはずだということになります。もっと広げて考えると、世界中の人々に共通する無意識(個人的無意識)の内容もあるのではないか、ということになります。ユングは、この世界中の人々に共通する無意識(個人的無意識)の内容を集合的無意識(collective unconscious)の内容であると考えました。人類共通の無意識を集合的無意識と呼んだわけです。ここまでは、よろしいでしょう。誰にでも、成程と納得できそうです。ところが、ここから先が不可解になってくるのです。ユングは、集合的無意識を個人的な無意識よりも、心のさらに下層(奥深い層)にあると考えてしまったのです。これを、おかしいとは思いませんか。例えば、金などの鉱物資源を探索して掘り出すことを考えてみます。金が表層部分、つまり地面から近いところにあれば見つけやすいでしょうし、掘り出すことも比較的にた易くできるでしょう。もっと深いところに眠っていれば、見つけにくいでしょうし掘り出すことも容易ではありません。それなのにユングは、集合的無意識を、個人的な無意識よりも下の層にあると考えたのです。Aさんに特有な個人的な内容よりも、AさんにもBさんにもCさんにもDさんにも共通する内容のほうが分かりにくい、意識に上りにくいとは、いったいどういうことでしょうか。常識的に考えれば、様々な人に共通する経験の内容のほうが、捉えやすいし分かりやすいのではないでしょうか。この点が実に不可解なのです。
 無意識の中には、あの人にもこの人にも共通するような部分は確かにあるでしょう。でも、この共通する部分も個人的無意識であることに変わりはないのです。何もことさら、この共通部分だけを取り上げて集合的無意識とか普遍的無意識とかいんちき臭い名前をつけて、本来の無意識とは別の層に存するのだと訳の分からない強弁をすることはないでしょう。そうして、このいかがわしい集合的無意識の中から狂信的なカルト宗教の“絶対者”(Mandala)が立ち現れてきたのであり、彼らユング派が不道徳で反社会的で非人間的になってしまったのです。