2015年9月23日水曜日

ステーションPARTⅢ

(これは、「ステーションPARTⅡ」 http://moriyamag.blogspot.jp/2013/10/part.html の続編です。)

河合隼雄―駅長さん、駅長さん。いやあ、久しぶりですなあ。
駅長―おや、これはどなたかと思ったら、地獄風呂の詐欺師さんではありませんか。
河合―相変わらず口が悪いなあ。駅長さんは。
駅長―それで今日は、どのようなご用事で?
河合―いえね。大した用事もないんですわ。ただね、新聞を見ていますとな。ちょっと駅長さんの顔を見て話したくなりましてな。
駅長―おや、地獄にも新聞がありますか。
河合―そりゃ勿論ありますとも。ただしね、新聞を読めるのは、わしのようなエリートだけに限られているんですわ。他の愚民どもは、読むことできまへん。だいたい、あんたはん、愚民というものはですな、読んでて読んでない、見ていて見ていない者どもですからな。
駅長―ふーむ。なかなか含蓄のあるお言葉ですな。
河合―それでですな。わしは今朝、新聞を読んでおったんですわい。するとな、フォルクスワーゲンの排ガス規制逃れの記事が目につきましてな。駅長さん、あんたこの記事をどう読まはりますか。
駅長―ええ?わたしにコメントせよと?そのような難しいことは、よく・・・・。
河合―ヘッヘッへ。そうでっか。アメリカの謀略だとか、ドイツを痛めつける罠だったとか、日本でなくてほっとしたとかというような見方をされるでしょう?
駅長―あ、いや、わたしはそこまで考えたことはありませんよ。
河合―いやいや、ふつうエリートというものは、そういうことまで考察するもんですわい。
駅長―そうですかあ。それなら、ひとつわたしもエリートさんたちにあやかって、そのように考えたことにしましょう。
河合―それでは、駅長さん。そう考えましたか。
駅長―はい、そのように考えましたです。
河合―駅長さん、そこが素人の浅ましさ。
駅長―何ですか。これではまるで詐欺ではありませんか。
河合―わしはね、詐欺も得意なんですわい。
駅長―参ったなあ。
河合―そこでですな。フォルクスワーゲンの事件を眺めるにあたっては、そのような知性のない、底の浅い見方をしてはいかんということです。もっと深い洞察力をもって物事を見つめなければ駄目だということです。
駅長―ほほう、洞察力ですか。成程、成程。
河合―そもそも、この世界をしょって立つエリートというものはですな、物事の本質を見極める深い洞察力と先の先を読む先見の明をもって、この世界に生起する一切の出来事の本来の意味を解き明かさないといけません。
駅長―そんなもんでしょうかねえ。
河合―そんなもんですとも。
駅長―それで?フォルクスワーゲンの事件に潜んでいる真実とは?
河合―よろしい。わしが解き明かしてみせましょう。フォルクスワーゲンの排ガス規制逃れはですな、人類の歴史に類例を見ない、いまだかつて人類が嗅いだことのない巨大で強力な屁ですわい。
駅長―ええっ?屁ですか?
河合―そうですとも、そうですとも。よく考えて御覧なさい。世界中の人々の鼻がひん曲がっておるのですぞ。このような、すさまじい屁をこいたやつは、人類の歴史に今まで現れたことはありません。
駅長―そうですな。おっしゃるとおりです。
河合―人は常に、外界で生起している事象を、曇りのない目で正確に見通さなければいけません。その際にですな、内界にばかり気をとられていては物事の本質は見えてこないのじゃ。そんな次元の低いことでは駄目なのじゃ。
駅長―はい、肝に銘じておきます。
河合―たとえば、ユング心理学などというものがあるな。あれは、自己の内界だけに気をとられているから、外的事象の本質が全然見えておらんのだ。外界から遮断されてしまっているのと同じだ。人間的な成熟とか精神的成長とかいうものを、自己の内界だけから達成されると考えている。愚かなことだ。人はいつも、外界の世界の事象を、透徹した目で見なければならんのだ。内界に捉われすぎると、外界が見えなくなる。見えているかにみえても、それは外界に内界を投影しているにすぎないのだ。その内界なるものは、ただの妄想体系にすぎない。それは、自我の死を意味することさえある。犯罪者というものは、えてして、このようなやつらがなるものだ。必然的に反社会的になるのである。どうだ、学生君。ちゃんとノートをとったかね。
駅長―あっ、いえ、ノートと鉛筆は駅長室に忘れてきました。
河合―しょうがないなあ。まあ仕方がない。本日の講義はここまで。
駅長―はい、河合教授、どうもありがとうございました。ところで、お客さん。以前に比べると、人が変わったように見受けられますが、いかがなされた。
河合―うーむ、そうじゃのう。
駅長―地獄で洗脳でもされましたか。
河合―うーむ。わしには、よう分からん。そんな難しいことは。