2015年9月27日日曜日

石田治部少輔

 天下取りを目前にした徳川家康に、最後に立ちはだかったのが石田三成だった。戦国武将としての格が違う、力量に差がある、人望もはるかに及ばない、ということで三成としては無謀な感じがしないではない。しかし三成には、自分が天下人になる野望はなかったと思われる。子どもの頃に自分を見いだしてくれて、英才教育を施してくれ、そんな家柄の出ではないのに一国一城の主にまで引き上げてくれた今は亡き秀吉に、ただ報いたかっただけなのだろう。それなのに、われわれが抱いている三成の人物像というものは、あまりよくない。これは、徳川幕府がその治世の間ずっと石田三成の人格攻撃、ネガティヴキャンペーンを行なっていたからではないか。三成へのネガティヴキャンペーンについては知識の裏づけがないのであるけれども、そのために実際の三成の人物像が歪められてしまったのではないか、という気がしてしかたがない。三成という腹黒いやつが権現様に妙なことを仕掛けてきて、突っかかってきたものだから、権現様はやむなく三成を成敗して、豊臣家を滅ぼさざるをえなくなったのである、というふうに家康が豊臣家を滅亡させたことを正当化したかったのではないだろうか。
 ユング心理学のユング派は、どうした訳か自分たちが信奉し拠って立つ思想を、お節介にもあらゆる人々に広めたいと考えているようである。自分たちを批判し攻撃する人は、徹底的に痛めつけようとする。また逆に、自分たちの仲間に引き入れようと懸命になることもある。このようなことを行なう過程で、彼らはかなりやばいことを仕出かしてしまうのである。まさに狂信者が、道を踏み外すのである。
 僕は、彼らの狂信的な盲動のターゲットになってしまったらしい。それならば、僕は関が原の三成に倣って、やってやろう。不道徳で反社会的で非人間的なユング派の世界制覇の前に、立ちはだかってやろうではないか。僕は必ず歴史をひっくり返してやろう、という意気込みで事に当たっている。