「集合的無意識なんかなかった」( http://gorom2.blogspot.jp/2014/12/blog-post_11.html )
無意識というものがあるということを認めるにしても、フロイトまでなら許せるけれども、ユングとなると許すことができません。フロイトが提唱した無意識は、個人的無意識です。これは、人が生まれて以来、その人が経験したことが材料になっています。つまり、個人的な経験が基になっているわけです。そこで、Aさんの無意識(個人的無意識)とBさんの無意識(個人的無意識)とは、AさんとBさんとでは経験したことが違うわけですから、Aさんの無意識とBさんの無意識とは異なるはずだ、ということになります。とはいうものの、無意識の内容の全てがAさんとBさんとでは完全に違うのかというと、そうでもありません。AさんとBさんがそれぞれ経験したものの中には、非常によく似ている経験、もう同じだといっても構わないような経験もあるはずなのです。これをAさんとBさんのふたりだけに限定しないで、他の人にもおしひろげて考えてみても同じことです。そうすると、Aさん、Bさん、Cさん、Dさんのみんなに共通している無意識の内容もあるはずだということになります。もっと広げて考えると、世界中の人々に共通する無意識(個人的無意識)の内容もあるのではないか、ということになります。ユングは、この世界中の人々に共通する無意識(個人的無意識)の内容を集合的無意識(collective unconscious)の内容であると考えました。人類共通の無意識を集合的無意識と呼んだわけです。ここまでは、よろしいでしょう。誰にでも、成程と納得できそうです。ところが、ここから先が不可解になってくるのです。ユングは、集合的無意識を個人的な無意識よりも、心のさらに下層(奥深い層)にあると考えてしまったのです。これを、おかしいとは思いませんか。例えば、金などの鉱物資源を探索して掘り出すことを考えてみます。金が表層部分、つまり地面から近いところにあれば見つけやすいでしょうし、掘り出すことも比較的にた易くできるでしょう。もっと深いところに眠っていれば、見つけにくいでしょうし掘り出すことも容易ではありません。それなのにユングは、集合的無意識を、個人的な無意識よりも下の層にあると考えたのです。Aさんに特有な個人的な内容よりも、AさんにもBさんにもCさんにもDさんにも共通する内容のほうが分かりにくい、意識に上りにくいとは、いったいどういうことでしょうか。常識的に考えれば、様々な人に共通する経験の内容のほうが、捉えやすいし分かりやすいのではないでしょうか。この点が実に不可解なのです。
無意識の中には、あの人にもこの人にも共通するような部分は確かにあるでしょう。でも、この共通する部分も個人的無意識であることに変わりはないのです。何もことさら、この共通部分だけを取り上げて集合的無意識とか普遍的無意識とかいんちき臭い名前をつけて、本来の無意識とは別の層に存するのだと訳の分からない強弁をすることはないでしょう。そうして、このいかがわしい集合的無意識の中から狂信的なカルト宗教の“絶対者”(Mandala)が立ち現れてきたのであり、彼らユング派が不道徳で反社会的で非人間的になってしまったのです。
2015年9月29日火曜日
2015年9月27日日曜日
石田治部少輔
天下取りを目前にした徳川家康に、最後に立ちはだかったのが石田三成だった。戦国武将としての格が違う、力量に差がある、人望もはるかに及ばない、ということで三成としては無謀な感じがしないではない。しかし三成には、自分が天下人になる野望はなかったと思われる。子どもの頃に自分を見いだしてくれて、英才教育を施してくれ、そんな家柄の出ではないのに一国一城の主にまで引き上げてくれた今は亡き秀吉に、ただ報いたかっただけなのだろう。それなのに、われわれが抱いている三成の人物像というものは、あまりよくない。これは、徳川幕府がその治世の間ずっと石田三成の人格攻撃、ネガティヴキャンペーンを行なっていたからではないか。三成へのネガティヴキャンペーンについては知識の裏づけがないのであるけれども、そのために実際の三成の人物像が歪められてしまったのではないか、という気がしてしかたがない。三成という腹黒いやつが権現様に妙なことを仕掛けてきて、突っかかってきたものだから、権現様はやむなく三成を成敗して、豊臣家を滅ぼさざるをえなくなったのである、というふうに家康が豊臣家を滅亡させたことを正当化したかったのではないだろうか。
ユング心理学のユング派は、どうした訳か自分たちが信奉し拠って立つ思想を、お節介にもあらゆる人々に広めたいと考えているようである。自分たちを批判し攻撃する人は、徹底的に痛めつけようとする。また逆に、自分たちの仲間に引き入れようと懸命になることもある。このようなことを行なう過程で、彼らはかなりやばいことを仕出かしてしまうのである。まさに狂信者が、道を踏み外すのである。
僕は、彼らの狂信的な盲動のターゲットになってしまったらしい。それならば、僕は関が原の三成に倣って、やってやろう。不道徳で反社会的で非人間的なユング派の世界制覇の前に、立ちはだかってやろうではないか。僕は必ず歴史をひっくり返してやろう、という意気込みで事に当たっている。
ユング心理学のユング派は、どうした訳か自分たちが信奉し拠って立つ思想を、お節介にもあらゆる人々に広めたいと考えているようである。自分たちを批判し攻撃する人は、徹底的に痛めつけようとする。また逆に、自分たちの仲間に引き入れようと懸命になることもある。このようなことを行なう過程で、彼らはかなりやばいことを仕出かしてしまうのである。まさに狂信者が、道を踏み外すのである。
僕は、彼らの狂信的な盲動のターゲットになってしまったらしい。それならば、僕は関が原の三成に倣って、やってやろう。不道徳で反社会的で非人間的なユング派の世界制覇の前に、立ちはだかってやろうではないか。僕は必ず歴史をひっくり返してやろう、という意気込みで事に当たっている。
2015年9月26日土曜日
芸術暗黒時代
文部科学省による僕に対する虐待に、いつの間にか芸術に無縁な人々の集まりであるユング派が手を組んで加わってきた。やつらは、僕の芸術的才能に惚れこんでしまったようである。迷惑千万な話だ。それならと、僕はあえて自分の才能を眠らせる対抗措置をとった(「幻想の黒いオルフェ」 http://moriyamag.blogspot.com/2013/11/blog-post_2028.html )。村上春樹や宮崎駿のように、ユング心理学によって売れっ子になってもしようがないではないか。それこそ芸術家の恥である。幾許かの時が経てば、結局は偽物の芸術家でしかなかったことが自然に判明して人々に嘲笑されるだけだろう。
若い頃には芸術や芸術家を馬鹿にして、そんなものは飯の種にならないと眼中になかった芸術に縁のない輩が、知ったかぶりに偉そうな顔をして村上春樹がどうのこうのと御託を並べているのを見ると、その鼻をへし折ってやりたくなる。村上春樹の作品には、文学的価値はない。それなのに、売るほうは文学作品として売り、買うほうも文学作品として買っている。だから、ややこしくなってしまうのである。村上の作品は、大衆文学か通俗小説の作品であることを、明確にしておいてもらわないと困る。世の多くの人が誤解してしまうではないか。芸術には縁がないくせに、芸術が分かったような顔をする。いっぱしの芸術通を気取りだす。このような輩が多くなればなるほど、本物の芸術家は生き辛くなる。芸術家は、ただでさえ生きるのが下手なのである。それを俄か芸術通たちが、さらに危機的な状況にしてしまった。この危機的状況は、ユング派がのさばることによって、ひどくなったものである。芸術に無縁な人種の者は、偉そうに芸術をあげつらうな。
今、ユング派を叩き潰し、文部科学省をねじ伏せたら、やっと僕は作曲家になるための精進を開始することができる。この年になって、やっとだ。それまでは、才能をいばら姫のように眠らせておかなければならない。精進を始めたからといって、すぐに作曲家になれるわけではない。民謡(民謡は音楽性の宝庫である)やバロック音楽などを究めなければならないのである。生きているうちに達成できるだろうか。
若い頃には芸術や芸術家を馬鹿にして、そんなものは飯の種にならないと眼中になかった芸術に縁のない輩が、知ったかぶりに偉そうな顔をして村上春樹がどうのこうのと御託を並べているのを見ると、その鼻をへし折ってやりたくなる。村上春樹の作品には、文学的価値はない。それなのに、売るほうは文学作品として売り、買うほうも文学作品として買っている。だから、ややこしくなってしまうのである。村上の作品は、大衆文学か通俗小説の作品であることを、明確にしておいてもらわないと困る。世の多くの人が誤解してしまうではないか。芸術には縁がないくせに、芸術が分かったような顔をする。いっぱしの芸術通を気取りだす。このような輩が多くなればなるほど、本物の芸術家は生き辛くなる。芸術家は、ただでさえ生きるのが下手なのである。それを俄か芸術通たちが、さらに危機的な状況にしてしまった。この危機的状況は、ユング派がのさばることによって、ひどくなったものである。芸術に無縁な人種の者は、偉そうに芸術をあげつらうな。
今、ユング派を叩き潰し、文部科学省をねじ伏せたら、やっと僕は作曲家になるための精進を開始することができる。この年になって、やっとだ。それまでは、才能をいばら姫のように眠らせておかなければならない。精進を始めたからといって、すぐに作曲家になれるわけではない。民謡(民謡は音楽性の宝庫である)やバロック音楽などを究めなければならないのである。生きているうちに達成できるだろうか。
大学教授になりたかった
僕は大学教授になりたかった。芸術家になる道は、芸術には無縁の人種であるくせにある日突然、奇妙な妄想体系にとり憑かれて自分を芸術家だと思い込んでしまったユング派の連中によって閉ざされている。それならば、その次になりたいのは何かと考えたら、大学教授だった。どうせ無能教授にしかなれないだろうが。しかし、大学教授になったとしても、三箇月さえもつかどうか分からない。無能教授の古狸のところに日参しなければならないのである。そして、心にもないお世辞を言わなければならない。これは、とても耐えられないと思った。
しかも、大学の監督機関は文部科学省ではないか。これでは敵地に単身、乗りこんでいくようなものである。集中砲火を浴びて、あっさりとお陀仏になってしまう。
しかも、大学の監督機関は文部科学省ではないか。これでは敵地に単身、乗りこんでいくようなものである。集中砲火を浴びて、あっさりとお陀仏になってしまう。
2015年9月23日水曜日
ステーションPARTⅢ
(これは、「ステーションPARTⅡ」 http://moriyamag.blogspot.jp/2013/10/part.html の続編です。)
河合隼雄―駅長さん、駅長さん。いやあ、久しぶりですなあ。
駅長―おや、これはどなたかと思ったら、地獄風呂の詐欺師さんではありませんか。
河合―相変わらず口が悪いなあ。駅長さんは。
駅長―それで今日は、どのようなご用事で?
河合―いえね。大した用事もないんですわ。ただね、新聞を見ていますとな。ちょっと駅長さんの顔を見て話したくなりましてな。
駅長―おや、地獄にも新聞がありますか。
河合―そりゃ勿論ありますとも。ただしね、新聞を読めるのは、わしのようなエリートだけに限られているんですわ。他の愚民どもは、読むことできまへん。だいたい、あんたはん、愚民というものはですな、読んでて読んでない、見ていて見ていない者どもですからな。
駅長―ふーむ。なかなか含蓄のあるお言葉ですな。
河合―それでですな。わしは今朝、新聞を読んでおったんですわい。するとな、フォルクスワーゲンの排ガス規制逃れの記事が目につきましてな。駅長さん、あんたこの記事をどう読まはりますか。
駅長―ええ?わたしにコメントせよと?そのような難しいことは、よく・・・・。
河合―ヘッヘッへ。そうでっか。アメリカの謀略だとか、ドイツを痛めつける罠だったとか、日本でなくてほっとしたとかというような見方をされるでしょう?
駅長―あ、いや、わたしはそこまで考えたことはありませんよ。
河合―いやいや、ふつうエリートというものは、そういうことまで考察するもんですわい。
駅長―そうですかあ。それなら、ひとつわたしもエリートさんたちにあやかって、そのように考えたことにしましょう。
河合―それでは、駅長さん。そう考えましたか。
駅長―はい、そのように考えましたです。
河合―駅長さん、そこが素人の浅ましさ。
駅長―何ですか。これではまるで詐欺ではありませんか。
河合―わしはね、詐欺も得意なんですわい。
駅長―参ったなあ。
河合―そこでですな。フォルクスワーゲンの事件を眺めるにあたっては、そのような知性のない、底の浅い見方をしてはいかんということです。もっと深い洞察力をもって物事を見つめなければ駄目だということです。
駅長―ほほう、洞察力ですか。成程、成程。
河合―そもそも、この世界をしょって立つエリートというものはですな、物事の本質を見極める深い洞察力と先の先を読む先見の明をもって、この世界に生起する一切の出来事の本来の意味を解き明かさないといけません。
駅長―そんなもんでしょうかねえ。
河合―そんなもんですとも。
駅長―それで?フォルクスワーゲンの事件に潜んでいる真実とは?
河合―よろしい。わしが解き明かしてみせましょう。フォルクスワーゲンの排ガス規制逃れはですな、人類の歴史に類例を見ない、いまだかつて人類が嗅いだことのない巨大で強力な屁ですわい。
駅長―ええっ?屁ですか?
河合―そうですとも、そうですとも。よく考えて御覧なさい。世界中の人々の鼻がひん曲がっておるのですぞ。このような、すさまじい屁をこいたやつは、人類の歴史に今まで現れたことはありません。
駅長―そうですな。おっしゃるとおりです。
河合―人は常に、外界で生起している事象を、曇りのない目で正確に見通さなければいけません。その際にですな、内界にばかり気をとられていては物事の本質は見えてこないのじゃ。そんな次元の低いことでは駄目なのじゃ。
駅長―はい、肝に銘じておきます。
河合―たとえば、ユング心理学などというものがあるな。あれは、自己の内界だけに気をとられているから、外的事象の本質が全然見えておらんのだ。外界から遮断されてしまっているのと同じだ。人間的な成熟とか精神的成長とかいうものを、自己の内界だけから達成されると考えている。愚かなことだ。人はいつも、外界の世界の事象を、透徹した目で見なければならんのだ。内界に捉われすぎると、外界が見えなくなる。見えているかにみえても、それは外界に内界を投影しているにすぎないのだ。その内界なるものは、ただの妄想体系にすぎない。それは、自我の死を意味することさえある。犯罪者というものは、えてして、このようなやつらがなるものだ。必然的に反社会的になるのである。どうだ、学生君。ちゃんとノートをとったかね。
駅長―あっ、いえ、ノートと鉛筆は駅長室に忘れてきました。
河合―しょうがないなあ。まあ仕方がない。本日の講義はここまで。
駅長―はい、河合教授、どうもありがとうございました。ところで、お客さん。以前に比べると、人が変わったように見受けられますが、いかがなされた。
河合―うーむ、そうじゃのう。
駅長―地獄で洗脳でもされましたか。
河合―うーむ。わしには、よう分からん。そんな難しいことは。
河合隼雄―駅長さん、駅長さん。いやあ、久しぶりですなあ。
駅長―おや、これはどなたかと思ったら、地獄風呂の詐欺師さんではありませんか。
河合―相変わらず口が悪いなあ。駅長さんは。
駅長―それで今日は、どのようなご用事で?
河合―いえね。大した用事もないんですわ。ただね、新聞を見ていますとな。ちょっと駅長さんの顔を見て話したくなりましてな。
駅長―おや、地獄にも新聞がありますか。
河合―そりゃ勿論ありますとも。ただしね、新聞を読めるのは、わしのようなエリートだけに限られているんですわ。他の愚民どもは、読むことできまへん。だいたい、あんたはん、愚民というものはですな、読んでて読んでない、見ていて見ていない者どもですからな。
駅長―ふーむ。なかなか含蓄のあるお言葉ですな。
河合―それでですな。わしは今朝、新聞を読んでおったんですわい。するとな、フォルクスワーゲンの排ガス規制逃れの記事が目につきましてな。駅長さん、あんたこの記事をどう読まはりますか。
駅長―ええ?わたしにコメントせよと?そのような難しいことは、よく・・・・。
河合―ヘッヘッへ。そうでっか。アメリカの謀略だとか、ドイツを痛めつける罠だったとか、日本でなくてほっとしたとかというような見方をされるでしょう?
駅長―あ、いや、わたしはそこまで考えたことはありませんよ。
河合―いやいや、ふつうエリートというものは、そういうことまで考察するもんですわい。
駅長―そうですかあ。それなら、ひとつわたしもエリートさんたちにあやかって、そのように考えたことにしましょう。
河合―それでは、駅長さん。そう考えましたか。
駅長―はい、そのように考えましたです。
河合―駅長さん、そこが素人の浅ましさ。
駅長―何ですか。これではまるで詐欺ではありませんか。
河合―わしはね、詐欺も得意なんですわい。
駅長―参ったなあ。
河合―そこでですな。フォルクスワーゲンの事件を眺めるにあたっては、そのような知性のない、底の浅い見方をしてはいかんということです。もっと深い洞察力をもって物事を見つめなければ駄目だということです。
駅長―ほほう、洞察力ですか。成程、成程。
河合―そもそも、この世界をしょって立つエリートというものはですな、物事の本質を見極める深い洞察力と先の先を読む先見の明をもって、この世界に生起する一切の出来事の本来の意味を解き明かさないといけません。
駅長―そんなもんでしょうかねえ。
河合―そんなもんですとも。
駅長―それで?フォルクスワーゲンの事件に潜んでいる真実とは?
河合―よろしい。わしが解き明かしてみせましょう。フォルクスワーゲンの排ガス規制逃れはですな、人類の歴史に類例を見ない、いまだかつて人類が嗅いだことのない巨大で強力な屁ですわい。
駅長―ええっ?屁ですか?
河合―そうですとも、そうですとも。よく考えて御覧なさい。世界中の人々の鼻がひん曲がっておるのですぞ。このような、すさまじい屁をこいたやつは、人類の歴史に今まで現れたことはありません。
駅長―そうですな。おっしゃるとおりです。
河合―人は常に、外界で生起している事象を、曇りのない目で正確に見通さなければいけません。その際にですな、内界にばかり気をとられていては物事の本質は見えてこないのじゃ。そんな次元の低いことでは駄目なのじゃ。
駅長―はい、肝に銘じておきます。
河合―たとえば、ユング心理学などというものがあるな。あれは、自己の内界だけに気をとられているから、外的事象の本質が全然見えておらんのだ。外界から遮断されてしまっているのと同じだ。人間的な成熟とか精神的成長とかいうものを、自己の内界だけから達成されると考えている。愚かなことだ。人はいつも、外界の世界の事象を、透徹した目で見なければならんのだ。内界に捉われすぎると、外界が見えなくなる。見えているかにみえても、それは外界に内界を投影しているにすぎないのだ。その内界なるものは、ただの妄想体系にすぎない。それは、自我の死を意味することさえある。犯罪者というものは、えてして、このようなやつらがなるものだ。必然的に反社会的になるのである。どうだ、学生君。ちゃんとノートをとったかね。
駅長―あっ、いえ、ノートと鉛筆は駅長室に忘れてきました。
河合―しょうがないなあ。まあ仕方がない。本日の講義はここまで。
駅長―はい、河合教授、どうもありがとうございました。ところで、お客さん。以前に比べると、人が変わったように見受けられますが、いかがなされた。
河合―うーむ、そうじゃのう。
駅長―地獄で洗脳でもされましたか。
河合―うーむ。わしには、よう分からん。そんな難しいことは。
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