補足(http://gorom2.blogspot.com/2015/01/9.html)のつづき
遠山敦子、目を覚ませ(9)(http://ameblo.jp/dwuu/entry-11973725313.html)の“名誉毀損”についてですが(赤字の箇所ではありません。青字に変えておきました)、信用毀損罪か業務妨害罪に該当するとみたほうがよいかもしれません。訂正します。
最近、法律のことばかり述べておりますが、これも遠山さんが法律や規則について、あまりお詳しくないようにお見受けしたからです。他意は、ございません。私も遠山さんと同様に、法律は苦手なのですから。
2015年1月14日水曜日
遠山敦子、目を覚ませ(9)の補足
遠山敦子、目を覚ませ(9)に前回、書き換えをしましたが(http://gorom2.blogspot.com/2015/01/blog-post_14.html)、若干、補足しておきます。
器物損壊罪については、ひとつ難しい問題があります。無体物(形のない物)である演劇活動を、客体である物として裁判所が認めてくれるかどうかです。おそらく判例はないでしょう。しかし電気でさえも、財物なのです。法律を離れて、素直に考えてみてください。財産的価値以上の価値がある演劇活動を、客体である物と認めても差し支えないのではないでしょうか。裁判所はきっと、通説をくつがえしてでも器物損壊罪の成立を認めてくれるでしょう。本当は器物損壊罪どころの話ではない、もっと重大な犯罪事件なのですから。
ユング派なんかを信奉していたら駄目です。集合的無意識とか元型とかという、ありもしない妄想体系にとり憑かれるから、自我を失ってしまうのです。自我を失えば、これはもう“きじるし”でしかありません。ユングファン、河合隼雄ファンの作家、村上春樹を御覧ください。“きじるし”としか言いようがないではありませんか。
心の深層が癒すのではありません。間違えないでください。その微弱なかすかな力弱い治癒力が働くためには、どうしても自我の助けが必要です。ユング派のように、例外なく自我を失っていては駄目だということです。“きじるし”になるだけです。そうして、もっと強力な薬を、と躍起になって、結局、悪魔から“安寧”をもらうことになってしまいました。
自我を失ってしまったら、法律家にも官僚にも政治家にもなれません。ましてや、心理学者や芸術家にもなれません。これは当然でしょう。
(「OCEAN」 January 12, 2015)
器物損壊罪については、ひとつ難しい問題があります。無体物(形のない物)である演劇活動を、客体である物として裁判所が認めてくれるかどうかです。おそらく判例はないでしょう。しかし電気でさえも、財物なのです。法律を離れて、素直に考えてみてください。財産的価値以上の価値がある演劇活動を、客体である物と認めても差し支えないのではないでしょうか。裁判所はきっと、通説をくつがえしてでも器物損壊罪の成立を認めてくれるでしょう。本当は器物損壊罪どころの話ではない、もっと重大な犯罪事件なのですから。
ユング派なんかを信奉していたら駄目です。集合的無意識とか元型とかという、ありもしない妄想体系にとり憑かれるから、自我を失ってしまうのです。自我を失えば、これはもう“きじるし”でしかありません。ユングファン、河合隼雄ファンの作家、村上春樹を御覧ください。“きじるし”としか言いようがないではありませんか。
心の深層が癒すのではありません。間違えないでください。その微弱なかすかな力弱い治癒力が働くためには、どうしても自我の助けが必要です。ユング派のように、例外なく自我を失っていては駄目だということです。“きじるし”になるだけです。そうして、もっと強力な薬を、と躍起になって、結局、悪魔から“安寧”をもらうことになってしまいました。
自我を失ってしまったら、法律家にも官僚にも政治家にもなれません。ましてや、心理学者や芸術家にもなれません。これは当然でしょう。
(「OCEAN」 January 12, 2015)
書き換えました
表現が曖昧なところを訂正しました。赤いフォントの箇所。1箇所のみ。
遠山敦子、目を覚ませ(9)
http://ameblo.jp/dwuu/entry-11973725313.html
なお、当サイトには姉妹サイトがあることをご存知でない方もいらっしゃるようなので次のURLをお知らせします。
真幸くあらばまたかへり見む(OCEAN)
http://ameblo.jp/dwuu/
遠山敦子、目を覚ませ(9)
http://ameblo.jp/dwuu/entry-11973725313.html
なお、当サイトには姉妹サイトがあることをご存知でない方もいらっしゃるようなので次のURLをお知らせします。
真幸くあらばまたかへり見む(OCEAN)
http://ameblo.jp/dwuu/
(「OCEAN」 January 10, 2015)
2015年1月5日月曜日
時効による消滅はなかった
A大学での詐欺事件(『ユング心理学批判』「各大学関係者の皆さんへ」http://moriyamag.blogspot.com/2014/05/blog-post.html)は、時効によって消滅したものと思い込んでいた。しかし、それは間違いだったようである。
A大学にいくら訴えても無視する。これは、詐欺犯罪事件に加担しているのと同じである。一度は死んだかに見えたものが、これで蘇ったのである。A大学の学長か理事長は、A大学の学内で発生した犯罪事件の従犯になった。学長か理事長も犯罪者の仲間入りをすることになったのである。
だが、以上のようなことを考えるまでもなく、時効による消滅はなかったのである。A大学における詐欺事件を皮切りにして、ユング派によるストーカー行為が始まった。このストーカー行為は、詐欺事件以来、今に至るまで継続している。つまり、あの犯罪が今も継続中だということになる。だから、時効消滅なんかありえなかったのである。
これで刑事告訴ができる。ただし問題は、僕が証拠を集めることができるか、ということである。また、警察がまともに協力してくれるかどうかということも心配である。そして何よりも、金がない。弁護士費用なんか、とても払えない。
ああ、つらいのう。それを言うな横山。おぼっちゃまは、つらい。
A大学にいくら訴えても無視する。これは、詐欺犯罪事件に加担しているのと同じである。一度は死んだかに見えたものが、これで蘇ったのである。A大学の学長か理事長は、A大学の学内で発生した犯罪事件の従犯になった。学長か理事長も犯罪者の仲間入りをすることになったのである。
だが、以上のようなことを考えるまでもなく、時効による消滅はなかったのである。A大学における詐欺事件を皮切りにして、ユング派によるストーカー行為が始まった。このストーカー行為は、詐欺事件以来、今に至るまで継続している。つまり、あの犯罪が今も継続中だということになる。だから、時効消滅なんかありえなかったのである。
これで刑事告訴ができる。ただし問題は、僕が証拠を集めることができるか、ということである。また、警察がまともに協力してくれるかどうかということも心配である。そして何よりも、金がない。弁護士費用なんか、とても払えない。
ああ、つらいのう。それを言うな横山。おぼっちゃまは、つらい。
2015年1月4日日曜日
自我を失ったら2
心理学、とりわけ臨床心理学において最も重要な概念は自我(ego, Ich)である。ユング心理学が外国(アメリカ)から移入されて日本で幅を利かせるようになって、この自我をないがしろにする傾向が生じてきた。始祖であるC・G・ユング(Carl Gustav Jung)もユンギアン(Jungian)たちも自我のない者ばかりである。集合的無意識とか元型といったありもしないものを前提にするから、自我を失うのである。それとともに、現実をも失う。現実から引き離される、と言ったほうが適当かもしれない。誰かと話していたとしても、目の前の人と談話しているのではない。影とかアニマとかというものを相手に投げかけて(つまり、投影して)、その投げかけた自分自身の影と話しているのである。目前の生身の人は遥か遠くに消え失せる。これは自己愛(narcissism)である。
自己愛という用語は、それ自身、自己撞着している。愛とは、他者に対する感情である。自己に対する愛などというものはない。自分に対するいとおしさや嫌悪感はあるにしても、自分への愛はないのである。だから、自己愛は愛ではない。同様に、同性愛も愛ではない。また、略奪愛も、そこには何か自己愛的なものが認められるので、愛ではない。
好きになった女性が人妻だということが判明した。どうするか。ワーグナーは、そんなことはお構いなしに何かに憑かれたような顔をして自分の“恋”をつらぬこうとする。バッハは、あきらめてさっさと引き返す。ブラームスは、基本的にはバッハ的である(『ユング心理学批判』「バッハとブラームスとワーグナー」http://moriyamag.blogspot.com/2013/10/blog-post_28.html)。この三者の行動のしかたの違いは、彼らの衝動の違いではなくて彼らそれぞれの自我の違いである。
衝動があったとしても、それを現実行動に移さなければ衝動がないのと同じである。問題なのは、衝動があるかどうかということではない。たとえ、ある衝動があったとしても、それを実行に移すかどうかということなのである。実行に移すかどうかということを決めるのが自我である。
魔がさして万引きした人がいるとしよう。世の中には、万引きしたいなと、ときに感じる人が結構いるのではないかと思われる。しかし、その衝動は、ほとんどの人は実行には移さないのである。それは、自我がちゃんとしているからである。魔がさしたという人は、その時、自我がどうかしていたのだろう。
自我という用語は、フロイト(Sigmund Freud)の精神分析の用語である。フロイトの最大の功績は、無意識を発見したことではない。ユング派は、そのように考えているだろうけれども。フロイトの最も大きな功績は、自我という概念を明確にしようとしたことである。
A大学で詐欺犯罪に遭ったわけであるけれども、あのときにK教授とO教授以外の人物から、妙なことを仕掛けられた。非常勤講師としてA大学に来ていた酒井汀である。A大学は、“西”のほうが設立した大学だが、酒井汀は“東”が設立した大学の教授であった(仮に、B大学とする)。
僕はそれまで、酒井汀には会ったことがない。一面識もなかったのである。ところが酒井汀は僕に向かって、子どもと“達磨さんのにらめっこ”をするかのように顔をくちゃくちゃにしかめてみせたのである。一瞬、恐怖を感じた。こちらは相手のことを知らないのに、むこうは僕のことをよく知っている。これは、やはり怖い。
自我(Ich)が失われてしまっている、もしくは自我に重大な損傷が生じている、というのがこのユング派(Jungian)の酒井汀についての印象である。ユング派には、おしなべて自我がない。本当に気持ちが悪かった。昔から“きじるし”と呼ばれている人は、見ると不快感を催すのである。
“西”が設立したA大学は、宗教を侮蔑するユングの思想をもって学内で詐欺犯罪を犯したK教授とO教授を何故だか庇っている。“東”が設立したB大学は、ユング派を雇っている。“東”も“西”も、もう駄目だということか。現代に何の意味もなくなってしまった教学にしがみつき、葬式のときに心のこもっていないお経を読むことでしか生活費を稼ぐことができない、いわば社会のお荷物たちの寄せ集めの教団が設立した大学には社会的な意義なんかないということか。だから、A大学もB大学も、何の研究業績もあげられない無能な教授ばかり雇っているのである。これでは、高等学校の延長ではないか。名ばかり大学である。もしも僕が、どこかの大学に雇われたとして、2年くらい勤めてみて自分には研究業績をあげる能力がないと見極めをつけたら、さっさと辞表を書くだろう。能力もないくせに、その仕事にしがみつくことは、矜持を失うことであり、社会に対する背信行為である。さっさと辞めることが社会的責任を果たすことになり、社会人としての誇りをなくさないことにもなる。A大学もB大学も、社会的な不具者の集まりではないか。だから、学内で起きた犯罪の実行犯を庇う。自分たちを見下しているユング派を雇用するのである。情けない大学だ。
「何をぬかすか、無能教授の集まりの大学だと?」と、反論してみるがいい。「S聖人の教えは永遠だ」と反論すればよいではないか。そんな元気もなくなったのか。やはり、もう駄目なのかな。
遠山敦子が新国立劇場理事長であったときに行ったことは、権力を笠に着た越権行為であるけれども、自我を失ってしまったか、もしくは自我に重大な損傷のある人物の行為である(「天下り理事長代わるか? 新国立劇場人事に芸術界注目」(http://www.asahi.com/special/minshu/TKY201101050330.html)
(asahi.com 朝日新聞2011年1月6日付))。芸術家の首を絞めるような、反文化的・反社会的行為である。犯罪に等しい。せっかく官僚という立派な“identity”を確立していたのに、そうして官僚として成功し大臣にもなったのに、それでもまだ不服だったのか。どうして、官僚以外のものになりたかったのか。なんの芸術的素養もセンスもないにもかかわらず。そのために、せっかく確立していた官僚の“identity”さえも危機に瀕することになったではないか。こうして自我をなくしたような反社会的な行動を行ったのである。遠山敦子が新国立劇場理事長であったときに行ったことは、“identity”が崩れてしまっていたことを示すと同時に、自我が崩れてしまっていたことをも表している。
官僚以外のものになりたくなったのなら、どうして辞職しなかったのか。官僚の“identity”と芸術家の“identity”は、ひとりの人物の中では両立不可能である。どちらか一方だけを取らなければならない。そんなに芸術家になりたくなったのなら、官僚を辞職しなければならないのである。そうしないから、おかしくなった。新国立劇場理事長のときに行ったことは、自我をなくした人に特徴的な行為であり、狂っているとしか言いようがない。“identity”に混乱をきたすと、えてしてこうなる。
河合隼雄は、“ウソツキ退職”という詐欺犯罪を犯し、日本臨床心理学会で河合が行なった子どもに対する心理検査の取り扱いの非人間性を批判されると学会を飛び出した。河合はこのように非人間的で反社会的な人物であるにもかかわらず、日本の子ども全員に配布される道徳の副教材“心のノート”の作成を依頼されると、固辞することもなく、ほいほいと引き受けた。まともな人間なら、「私は非人間的で反社会的な人間ですから」と断るはずである。なんと偽善的なのだろう。そして、これは河合の自我が崩れていることを表している。また、河合が“ウソツキ退職”したことは、以前の“identity”を精算することに失敗したことを意味している。一度、前の“identity”をチャラにしてから、臨床心理学者の“identity”を再確立しなければならないのに、“ウソツキ退職”によって前の勤務高校の影を引きずらなければならなくなったために、“identity”の再確立が困難になったわけである。“identity”が混乱しているものは、碌な仕事ができない。
氏原寛は、下手糞なひどい文章しか書けないくせに、作家になりたいと心理学関係の自分の著書で公言した。それから20~30年たったが、作家になったという話は聞いたことがない。また、やはり著書でカウンセリングを受けていることも公言している。自我がめちゃくちゃになっているのである。
ユングを批判していた“Richard Noll”の“THE ARYAN CHRIST”を日本語に翻訳したのは、なんとユング派なのである。ユング批判の矛先も鈍るであろうし、適当に内容を改変もしているだろう。気味の悪いやつだ。
ユング派は、本当に気持ちの悪いやつらだ。自我の壊れた“きじるし”は、本当に気持ちが悪い。ユング心理学は、精神病になるための心理学である。
自己愛という用語は、それ自身、自己撞着している。愛とは、他者に対する感情である。自己に対する愛などというものはない。自分に対するいとおしさや嫌悪感はあるにしても、自分への愛はないのである。だから、自己愛は愛ではない。同様に、同性愛も愛ではない。また、略奪愛も、そこには何か自己愛的なものが認められるので、愛ではない。
好きになった女性が人妻だということが判明した。どうするか。ワーグナーは、そんなことはお構いなしに何かに憑かれたような顔をして自分の“恋”をつらぬこうとする。バッハは、あきらめてさっさと引き返す。ブラームスは、基本的にはバッハ的である(『ユング心理学批判』「バッハとブラームスとワーグナー」http://moriyamag.blogspot.com/2013/10/blog-post_28.html)。この三者の行動のしかたの違いは、彼らの衝動の違いではなくて彼らそれぞれの自我の違いである。
衝動があったとしても、それを現実行動に移さなければ衝動がないのと同じである。問題なのは、衝動があるかどうかということではない。たとえ、ある衝動があったとしても、それを実行に移すかどうかということなのである。実行に移すかどうかということを決めるのが自我である。
魔がさして万引きした人がいるとしよう。世の中には、万引きしたいなと、ときに感じる人が結構いるのではないかと思われる。しかし、その衝動は、ほとんどの人は実行には移さないのである。それは、自我がちゃんとしているからである。魔がさしたという人は、その時、自我がどうかしていたのだろう。
自我という用語は、フロイト(Sigmund Freud)の精神分析の用語である。フロイトの最大の功績は、無意識を発見したことではない。ユング派は、そのように考えているだろうけれども。フロイトの最も大きな功績は、自我という概念を明確にしようとしたことである。
A大学で詐欺犯罪に遭ったわけであるけれども、あのときにK教授とO教授以外の人物から、妙なことを仕掛けられた。非常勤講師としてA大学に来ていた酒井汀である。A大学は、“西”のほうが設立した大学だが、酒井汀は“東”が設立した大学の教授であった(仮に、B大学とする)。
僕はそれまで、酒井汀には会ったことがない。一面識もなかったのである。ところが酒井汀は僕に向かって、子どもと“達磨さんのにらめっこ”をするかのように顔をくちゃくちゃにしかめてみせたのである。一瞬、恐怖を感じた。こちらは相手のことを知らないのに、むこうは僕のことをよく知っている。これは、やはり怖い。
自我(Ich)が失われてしまっている、もしくは自我に重大な損傷が生じている、というのがこのユング派(Jungian)の酒井汀についての印象である。ユング派には、おしなべて自我がない。本当に気持ちが悪かった。昔から“きじるし”と呼ばれている人は、見ると不快感を催すのである。
“西”が設立したA大学は、宗教を侮蔑するユングの思想をもって学内で詐欺犯罪を犯したK教授とO教授を何故だか庇っている。“東”が設立したB大学は、ユング派を雇っている。“東”も“西”も、もう駄目だということか。現代に何の意味もなくなってしまった教学にしがみつき、葬式のときに心のこもっていないお経を読むことでしか生活費を稼ぐことができない、いわば社会のお荷物たちの寄せ集めの教団が設立した大学には社会的な意義なんかないということか。だから、A大学もB大学も、何の研究業績もあげられない無能な教授ばかり雇っているのである。これでは、高等学校の延長ではないか。名ばかり大学である。もしも僕が、どこかの大学に雇われたとして、2年くらい勤めてみて自分には研究業績をあげる能力がないと見極めをつけたら、さっさと辞表を書くだろう。能力もないくせに、その仕事にしがみつくことは、矜持を失うことであり、社会に対する背信行為である。さっさと辞めることが社会的責任を果たすことになり、社会人としての誇りをなくさないことにもなる。A大学もB大学も、社会的な不具者の集まりではないか。だから、学内で起きた犯罪の実行犯を庇う。自分たちを見下しているユング派を雇用するのである。情けない大学だ。
「何をぬかすか、無能教授の集まりの大学だと?」と、反論してみるがいい。「S聖人の教えは永遠だ」と反論すればよいではないか。そんな元気もなくなったのか。やはり、もう駄目なのかな。
遠山敦子が新国立劇場理事長であったときに行ったことは、権力を笠に着た越権行為であるけれども、自我を失ってしまったか、もしくは自我に重大な損傷のある人物の行為である(「天下り理事長代わるか? 新国立劇場人事に芸術界注目」(http://www.asahi.com/special/minshu/TKY201101050330.html)
(asahi.com 朝日新聞2011年1月6日付))。芸術家の首を絞めるような、反文化的・反社会的行為である。犯罪に等しい。せっかく官僚という立派な“identity”を確立していたのに、そうして官僚として成功し大臣にもなったのに、それでもまだ不服だったのか。どうして、官僚以外のものになりたかったのか。なんの芸術的素養もセンスもないにもかかわらず。そのために、せっかく確立していた官僚の“identity”さえも危機に瀕することになったではないか。こうして自我をなくしたような反社会的な行動を行ったのである。遠山敦子が新国立劇場理事長であったときに行ったことは、“identity”が崩れてしまっていたことを示すと同時に、自我が崩れてしまっていたことをも表している。
官僚以外のものになりたくなったのなら、どうして辞職しなかったのか。官僚の“identity”と芸術家の“identity”は、ひとりの人物の中では両立不可能である。どちらか一方だけを取らなければならない。そんなに芸術家になりたくなったのなら、官僚を辞職しなければならないのである。そうしないから、おかしくなった。新国立劇場理事長のときに行ったことは、自我をなくした人に特徴的な行為であり、狂っているとしか言いようがない。“identity”に混乱をきたすと、えてしてこうなる。
河合隼雄は、“ウソツキ退職”という詐欺犯罪を犯し、日本臨床心理学会で河合が行なった子どもに対する心理検査の取り扱いの非人間性を批判されると学会を飛び出した。河合はこのように非人間的で反社会的な人物であるにもかかわらず、日本の子ども全員に配布される道徳の副教材“心のノート”の作成を依頼されると、固辞することもなく、ほいほいと引き受けた。まともな人間なら、「私は非人間的で反社会的な人間ですから」と断るはずである。なんと偽善的なのだろう。そして、これは河合の自我が崩れていることを表している。また、河合が“ウソツキ退職”したことは、以前の“identity”を精算することに失敗したことを意味している。一度、前の“identity”をチャラにしてから、臨床心理学者の“identity”を再確立しなければならないのに、“ウソツキ退職”によって前の勤務高校の影を引きずらなければならなくなったために、“identity”の再確立が困難になったわけである。“identity”が混乱しているものは、碌な仕事ができない。
氏原寛は、下手糞なひどい文章しか書けないくせに、作家になりたいと心理学関係の自分の著書で公言した。それから20~30年たったが、作家になったという話は聞いたことがない。また、やはり著書でカウンセリングを受けていることも公言している。自我がめちゃくちゃになっているのである。
ユングを批判していた“Richard Noll”の“THE ARYAN CHRIST”を日本語に翻訳したのは、なんとユング派なのである。ユング批判の矛先も鈍るであろうし、適当に内容を改変もしているだろう。気味の悪いやつだ。
ユング派は、本当に気持ちの悪いやつらだ。自我の壊れた“きじるし”は、本当に気持ちが悪い。ユング心理学は、精神病になるための心理学である。
2015年1月3日土曜日
法律書を読めば
「法律書を読むのが苦痛でならない」という意味のことを、三島由紀夫がどこかで書いていた。三島は学習院大学法学部の卒業である。大学に入学するときに、学部を間違えてしまったという悔しさが滲み出ている言葉である。
法律書は重要な書物である。これは大前提である。しかし法律書を読むことは、文学者や芸術家にはとても耐えられないことなのである。法律書の文章の流れが、自己の内的な流れとあまりにも食い違いすぎていて、齟齬をきたすからだろうと思う。だから、法律家や官僚・政治家と芸術家とは人種が違う、としか言いようがない。法律家や官僚・政治家と芸術家の“identity”は、ひとりの人間の中では、とても両立しえないのである。ただ、法律家と推理作家(または、通俗小説・大衆文学の作家)の“identity”なら両立することができる。たとえば、赤かぶ検事シリーズの著者である。しかし、僕も大好きな推理小説は芸術ではないだろう。
芸術は万人のものではない。世の中には、芸術なんか何の腹の足しにもならないし、つまらないものだと、半ば軽蔑の念をもって眺めている人がたくさんいる。芸術愛好者よりも、そのほうがはるかに数が多いだろう。それが、どうしていけないのか。世の中には、“人種”の違う人間がいる。これは当たり前のことではないか。人の個性の問題なのである。人の優劣の問題なのではない。第一、芸術家と弁護士と、どちらが優れているかと問われれば、弁護士のほうが優秀であると答える人が圧倒的に多いであろう。
ユング派は、なぜ芸術家気取りをしたがるのか。まったく不思議である。黄色人種であるのなら、それで満足して自足しておればよい。それを、何を好き好んで顔や腕に白粉を塗りたくって、“俺は白人だ”とうそぶくのか。そんなものは、一度シャワーを浴びれば流れ落ちてしまうのだ。
村上春樹が純文学の作家なのか、大衆文学(通俗小説)の作家なのか、よく考えてもらいたい。芥川賞を受賞しているではないか、ということは村上が純文学作家であると看做すことの根拠にはならない。だいたい芥川賞作家の中に、何人まともな純文学作家がいるのか。たとえば、石原慎太郎や田中康夫を思い浮かべてみるがいい。たった一作の“まぐれ”で芥川賞作家になった。その知名度を最大限に利用して、身分不相応な政治家に転向してしまった。石原慎太郎の場合は、それに加えて、“親の七光り”ならぬ“弟の七光り”も手伝った。そもそも、政治家と芸術家との“identity”は両立しえないものなのである。彼らが政治家になったのは、彼らが偽文学者だったからである。「太陽の季節」も「なんとなくクリスタル」も、とても文学作品とは呼べないではないか。芥川賞も罪深いことをしているものだ。結局、少なくともふたりの人間の人生を誤らせてしまったのである。そして、そのために何人の真の文学者が消えていったのだろう。だいたい芥川賞の選考委員に、何人のまともな文学者がいるというのか。いや、非常に悲観的なことを言わせてもらうと、そもそもまともな文学者というものは、このような選考委員にはならないものだということである。偽文学者を、おだてて舞い上がらせているだけではないか。これは、僕が芥川賞を受賞することができないから、言っているのではない。もしかしたら、そうかもしれないけれども。
ユング派の芸術に対する嗜好は、文学の世界で言えば、純文学に対するものではなくて大衆文学・通俗小説に対する嗜好である。ユングファンの村上春樹の作品も純文学作品ではない。ちょっと考えてみればわかることではないか。村上春樹の作品を絶賛している人々というものは、純文学や芸術とは何の縁もない人種の人々ではないか。
法律書は重要な書物である。これは大前提である。しかし法律書を読むことは、文学者や芸術家にはとても耐えられないことなのである。法律書の文章の流れが、自己の内的な流れとあまりにも食い違いすぎていて、齟齬をきたすからだろうと思う。だから、法律家や官僚・政治家と芸術家とは人種が違う、としか言いようがない。法律家や官僚・政治家と芸術家の“identity”は、ひとりの人間の中では、とても両立しえないのである。ただ、法律家と推理作家(または、通俗小説・大衆文学の作家)の“identity”なら両立することができる。たとえば、赤かぶ検事シリーズの著者である。しかし、僕も大好きな推理小説は芸術ではないだろう。
芸術は万人のものではない。世の中には、芸術なんか何の腹の足しにもならないし、つまらないものだと、半ば軽蔑の念をもって眺めている人がたくさんいる。芸術愛好者よりも、そのほうがはるかに数が多いだろう。それが、どうしていけないのか。世の中には、“人種”の違う人間がいる。これは当たり前のことではないか。人の個性の問題なのである。人の優劣の問題なのではない。第一、芸術家と弁護士と、どちらが優れているかと問われれば、弁護士のほうが優秀であると答える人が圧倒的に多いであろう。
ユング派は、なぜ芸術家気取りをしたがるのか。まったく不思議である。黄色人種であるのなら、それで満足して自足しておればよい。それを、何を好き好んで顔や腕に白粉を塗りたくって、“俺は白人だ”とうそぶくのか。そんなものは、一度シャワーを浴びれば流れ落ちてしまうのだ。
村上春樹が純文学の作家なのか、大衆文学(通俗小説)の作家なのか、よく考えてもらいたい。芥川賞を受賞しているではないか、ということは村上が純文学作家であると看做すことの根拠にはならない。だいたい芥川賞作家の中に、何人まともな純文学作家がいるのか。たとえば、石原慎太郎や田中康夫を思い浮かべてみるがいい。たった一作の“まぐれ”で芥川賞作家になった。その知名度を最大限に利用して、身分不相応な政治家に転向してしまった。石原慎太郎の場合は、それに加えて、“親の七光り”ならぬ“弟の七光り”も手伝った。そもそも、政治家と芸術家との“identity”は両立しえないものなのである。彼らが政治家になったのは、彼らが偽文学者だったからである。「太陽の季節」も「なんとなくクリスタル」も、とても文学作品とは呼べないではないか。芥川賞も罪深いことをしているものだ。結局、少なくともふたりの人間の人生を誤らせてしまったのである。そして、そのために何人の真の文学者が消えていったのだろう。だいたい芥川賞の選考委員に、何人のまともな文学者がいるというのか。いや、非常に悲観的なことを言わせてもらうと、そもそもまともな文学者というものは、このような選考委員にはならないものだということである。偽文学者を、おだてて舞い上がらせているだけではないか。これは、僕が芥川賞を受賞することができないから、言っているのではない。もしかしたら、そうかもしれないけれども。
ユング派の芸術に対する嗜好は、文学の世界で言えば、純文学に対するものではなくて大衆文学・通俗小説に対する嗜好である。ユングファンの村上春樹の作品も純文学作品ではない。ちょっと考えてみればわかることではないか。村上春樹の作品を絶賛している人々というものは、純文学や芸術とは何の縁もない人種の人々ではないか。
2015年1月2日金曜日
当サイトは
このサイトは、森山梧郎の「真幸くあらばまたかへり見む(OCEAN)」(http://ameblo.jp/dwuu/entry-11914326732.html)の姉妹サイトです。
現時点での当サイト独自の新しいコンテンツ・内容としては、
「集合的無意識なんかなかった」
http://gorom2.blogspot.com/2014/12/blog-post_11.html
「自我を失えば」
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「“Ave Maria”の補足」
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現時点での当サイト独自の新しいコンテンツ・内容としては、
「集合的無意識なんかなかった」
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「自我を失えば」
http://gorom2.blogspot.com/2014/12/blog-post_28.html
「“Ave Maria”の補足」
http://gorom2.blogspot.com/2014/12/ave-maria_26.html
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