2016年1月31日日曜日

「文部科学省の残虐な犯罪」に追加

文部科学省の残虐な犯罪」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post_28.html )に追加があります。後ろのほうのグレーの背景箇所。一箇所。

2016年1月29日金曜日

愛の不能者

 ついに切り札を切った。今まで、引き延ばしに引き延ばしてきた。とにかく、この札は切りにくい。大変な危険を伴う。当然、やつらはオカマの“しな”を作って言い寄ってくるだろう。オカマは、気に入った相手をオカマにしたがるのである。果たして、これを持ちこたえることができるだろうか。実際に、オカマの“しな”はもう始まっている。
 今を最終戦争と位置づける。この戦いに勝てなければ、もう生きてはおれないだろう。長い長い年月の無益な虐待によって、すっかり生命力を失い、健康も害された。こんな気持ちの悪いやつらを相手にするのに、うんざりしている。芸術には縁がないくせに、遠山敦子のように自分を芸術家だと思い込んだいかれた連中によって、いじられたために創造の泉は、もう駄目になったかもしれない。生き甲斐も希望もなくなった。早く楽になりたいと願ったりもする。日本には、もう帰ることができない。残虐な文部科学省に、暴行陵虐によって30年も痛めつけられている。文部科学省は、あちらこちらに虚偽の悪口を言い広め、たぶん、それを聞いた“ゆうちょ銀行”によって殺されそうになった。多額の定額預金をしていたことがあったから、僕は“ゆうちょ銀行”の顧客のはずではないのか。顧客に手をかけて首を絞める銀行とは、どんな銀行なのか。恐くて日本に帰れるはずがないではないか。しかも、そろそろ、また断崖絶壁に追い詰められるときが近づいている。今までに、何度繰り返しただろう。やつらは、このように絶体絶命のピンチに追い込んで、人を思い通りに操ろうとする。卑しい低級なやつらだ。今度は自殺に見せかけて、その自殺を助けたようなふりをする。その次に、また自殺しようとしたように見せかけて、また救助したふりをする。このようなことを何度か繰り返す。そうして最後に、ようやく無事、御成仏ということになるそうだ。これを嬲り殺しといわずして、何といえばよいのか。恐ろしいやつらだ。どうか、助けてください。
 とにかく冷たい。人に対する優しさとか思いやりとかとは無縁である。人への暖かい感情が皆無のように見える。氷のように冷たいのである。これがユンギアンの全般的な特徴である。愛がないからである。愛を知る能力さえ、初めから持っていないのである。二十年もの年月の間、執拗に付き纏っているのである。その間、ずっと例の乞食女と結婚せよと迫っている(「アニマは女性像ではない」 http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post.html )。乞食女には、“女”を感じることができない。したがって、愛の対象にはなりえない。“女”を感じられない人と結婚するということは、同性婚とどこが違うのか。同性愛者の結婚ではないか。この執念深さ、異常さはいったい何なのだろう。ユング派は同性愛者である、と考えれば納得がいくのである。
 そこで、龍谷大学の小島勝や元大谷大学の酒井汀の僕に対する行動のしかたが、どうも気持ちが悪いということに思い当たった。まるで、「ほの字よ」と言ってるみたいなのである。オカマに魅入られたみたいなのである。そうして、決定的な根拠が見つかった。ユング心理学の元型としてのアニマ(anima)は、一般的普遍的集合的な領域とみなされている領域にあるものだから、絶対に女性像ではありえないという理解に達したことである(「アニマは女性像ではない」 http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post.html )。アニマにロマンチックな幻想を重ね合わせたりしたら、極めて危うい。これは愛の不能者がすることである。そして精神病者でもある。愛する能力が欠如しているのである。愛する能力の欠如、これはまさしくユング派のことではないか。
 愛のない、愛することができない人間は、実に残酷である。ところが、不思議なことに、やさしそうな堂々とした態度は、とることができるのである。ユング派の行動のしかたは、心からのものではなく、頭の中で、このような状況のときはこのような振る舞いをすれば周囲の人を感服させることができると、予めシュミレーションを行なったうえで、自分が描いたシナリオどおりに行動しているのである。つまり彼らは、人生を美しく立派に演じ続けているのである。したがって、彼らには誠実さや真摯な情愛というものが全くない。彼らは、陰では実に残酷なことも平気でできる。愛を知らない、愛を知る能力がないものは、実に残酷である。僕に対する執念深さ、残酷さの原因は、彼らが愛の不能者だからである。
 本当に気持ちの悪いやつらだ。どうかユング派を、社会から追放してもらいたい。

再び「龍谷大学を受験しましょう」に書き加え

再び「龍谷大学を受験しましょう」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post_24.html )に書き加えました。赤い背景色の箇所の中の、黒い背景の白抜き文字の箇所。

奈良育英高校や天理大学の卒業生の方々は、もっと声を上げてもよろしいのではありませんか。河合隼雄が“ウソツキ退職”したことが、のちに遠山敦子という魔女のような女オカマが悪魔を野に放つきっかけになったのですから。

「龍谷大学を受験しましょう」に書き加え

龍谷大学を受験しましょう」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post_24.html )に書き加えました。赤い背景箇所。

奈良育英高校や天理大学の卒業生の方々は、もっと声を上げてもよろしいのではありませんか。河合隼雄が“ウソツキ退職”したことが、のちに遠山敦子という魔女のような女オカマが悪魔を野に放つきっかけになったのですから。

2016年1月28日木曜日

文部科学省の残虐な犯罪

龍谷大学を受験しましょう」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post_24.html )に書き加えていたが、ちょっと長くなりすぎて前後のつながりが悪くなったため、独立させた。背景色の箇所は、さらに手を加えた部分。

 甲子園でも有名な天理高校は、あのイカサマ師のおっさんの河合隼雄が京都大学教授になる前に勤めていた高校ではないかと、最初に考えていました(「河合隼雄の犯罪」 http://moriyamag.blogspot.my/2013/09/blog-post.html 、「河合隼雄、心のノートで模擬授業を行なう」 http://moriyamag.blogspot.my/2013/09/blog-post_2.html )。どうやら、これは間違いのようです。正しくは仙台育英高校、じゃあなかった、奈良育英高校のようです。河合隼雄はね、奈良育英高校でも、その次に就職した天理大学でも“ウソツキ退職”をしているのです。こういうのを“常習犯”といいます。習い性になる、というやつですね。常習犯というものは、更生の可能性はほとんどありません。本当に不道徳で反社会的で非人間的な人格なのです。これは治しようがないのです。こうして河合隼雄は、非人間的で反社会的な恐ろしいユング心理学を日本に移入して、日本の人々に塗炭の苦しみを嘗めさせ、日本の人々を地獄に落としめているのです。実際に、日本臨床心理学会というところで河合隼雄は、子どもに対する心理検査について、その非人間的な取り扱いを批判されました。普通のまともな正常な人ならば、ああ、これは自分が悪かった、子どもさんたちに対して何という無礼な残虐な非道なことをしてしまったのか、と自らを深く反省するものです。そして、このようなことは決して二度と繰り返さないと、みんなの前で誓うものです。ところが、河合隼雄は正常でもまともでも当たり前の人間でもなかったのです。批判に対して、カンカンになって怒りました。そうして日本臨床心理学会を手下を引き連れて脱会して(この手下もユング派です)、新しく心理臨床学会という奇妙な名称の学会を立ち上げました。“心理臨床”という言葉は、日本語としてはめちゃくちゃです。どうです、恐ろしいやつではありませんか。非人間的の極みと申せましょう。人間の心をなくしているのですね。これが、ユング心理学という、とてつもない妄想を基本にした恐ろしい心理学に拠って立つ、いかれた狂った者たち(ユンギアン)の特徴的な性格なのです。ここで、さらに驚くことがあります。この非人間的で不道徳で恐ろしい河合隼雄を、日本の教育行政を預かる文部科学省が破格の待遇でもって優遇し重用していました。そして、こともあろうに、日本の小中学生全員に配布される道徳の副教材「心のノート」を河合隼雄に作成させていたのです。不道徳な人物に道徳の副教材を作らせる、非人間的で精神的に異常で恐ろしい人物に「心のノート」と題した教材を作成させる。これは誰が見ても、おかしいと感じるでしょう。そこで文部科学省に、このようなめちゃくちゃなことはするなと申し入れたのですが、文部科学省は、うるさい、文句あるのか、ごちゃごちゃぬかすな、という態度なのです。みなさん、この文部科学省の態度を、どう考えますか。文部科学省も河合隼雄と同様に、非人間的で反社会的で恐ろしい役所なのではないか、という気がしてきませんか。日本の未来を語るはずの教育行政を担っている文部科学省が、非人間的で反社会的で不道徳で恐ろしい役所である。背筋が寒くなってきませんか。世界中の人々に嘲笑されているでしょう。このブログはね、姉妹サイトや前身のサイトとともに、世界中のたくさんの国の人々に閲覧していただいています。文部科学省は、私こと森山梧郎を30年ぐらいの間、虐待してきました。虚偽の悪口を、あちらこちらにばら撒いたのです。その発端は、私の行為の意味を取り違えた重大な誤解です。その誹謗中傷は、私の家族や親戚、友人にまで及びました。さらに、職場にまでも及んだのです。そのほかにも、内閣(つまり日本政府)をはじめ様々なところに私の誹謗中傷がなされているようです。実際に去年、私としては多額の定額預金を以前していた“ゆうちょ銀行”に殺されかかりました。こうして私は、家族や親戚や友人から完全に馬鹿にされ軽蔑され、ほとんど人間扱いしてもらえないという状態で、もう家族でも親戚でも友人でもなくなって、ひとりぼっちにされてしまいました。職場でも、やはり馬鹿にされていじめのような嫌がらせを受けたり、脅迫のような威嚇をされたりして退職せざるをえなくなってしまいました。その後、どんな仕事であっても、たとえ就職するのが容易な仕事で誰でも就職できそうな仕事であっても、奇妙な邪魔が入って就職することができなくなりました。誹謗中傷をあちらこちらに撒き散らすだけではなく、文部科学省は、まるでストーカーのように30年にも亘って付き纏っているのです。この恐ろしい激しい情念、執念深さは、いったい何なのでしょうか。そのために、私の人生はなくなってしまったも同然です。冤罪事件によって30年も刑務所にいたのと同じです。刑務所にいたのと同じであっても、懲役に服していたのではなく、縛り上げられて集団リンチのようなすさまじい暴行を受け、脅迫されていたのです。これは殺人以上の極悪非道な犯罪ではないでしょうか。その上、文部科学省は、恐ろしいユング派を虐待仲間に引き入れました。その、おそらく最初の舞台になったのが龍谷大学でした。
 先程、僕に対する文部科学省の虐待のきっかけは、僕の行為の意味について文部科学省がその意味を取り違えて、ものすごく悪い意味に解したためだと申し上げました。実は、この出来事だけが原因ではありません。もうひとつ、あるのです。「遠山敦子の犯罪」( http://gorom8.blogspot.jp/2015/09/blog-post_4.html )で次のように書きました。

20歳代のときに、ある女性から陰湿ないじめを受けて、すっかり参ってしまった。その女性は、7~8歳ほど年上であり結婚して子どももいる。僕はこの女性からの理不尽ないじめに心を傷つけられて、仕事にまで影響するほどだった。ところがある日、見かねたある男性が、僕もその女性も含めて何人かいる中で次のように言った。「Aさん(僕をいじめていた女性のこと)はBさん(僕のこと)のことを、とても気にしているよ」。え?「気にしている」とは、どういうこと?、と思ってその女性のほうを見やると、恥ずかしそうに俯いてもじもじしている。これで、すべてを了解することができた。その女性が僕をいじめていたのは、僕を嫌っていたからではなかったのである。この出来事は、僕に大きなダメージを与えた。いじめられて仕事にまでも影響していたこともさることながら、もっと重大な損害が待っていたのである。「気にしている」発言のその場に臨席していたのは、ほとんどが男性であった。「気にしている」発言から幾許かの日数を経過すると、今度は「気にしている」発言に同席して聞いていた男性達が、いじめどころではない、すさまじいばかりの僕に対する迫害をしだしたのである。それはもう、集団リンチといってもよいほどのものだった。この陵虐を突き動かしていたのは、嫉妬に似た感情から変化した憎悪であろう。このとき以来、僕は今に至るまで死線をさまよわなければならなくなったのである。(以上、引用)

 この女性のいじめ方は、全員に配るべきお菓子を、わざと僕にだけくれない、というような実に幼稚で知能の足りないことを、うかがわせるものでした。文部科学省が僕の行為の意味を取り違えた誤解に加えて、この出来事が文部科学省の僕に対する虐待に拍車をかけました。そこで以前に、文部科学省に僕の行為の意味についての取り違えを指摘して、善処するように申し入れたのですが、文部科学省による虐待は収まる気配がないのです。監視や虐待が始まってから長い間、僕は何故このような目に遭わなければならないのか、見当がつきませんでした。ようやく、文部科学省による虐待の原因に思い当たり、そのことを文部科学省に申し入れたにもかかわらず、虐待が終息しない。終息するどころか、なおひどくなっているようなのです。文部科学省によって日本から追い出された。長い年月の虐待によって、何もかも失い、ひとりぼっちになり、すっかり参ってしまい、健康も害したのに、それでも、まだ気がすまないというのでしょうか。これは残酷で恐ろしすぎると思いませんか。本気で僕を殺すつもりなのか、と考えてしまいます。

龍谷大学が頑強に犯罪者を庇うのは、背後にユング派を優遇し重用している文部科学省がいるからではないかと考えられる。文部科学省が龍谷大学を、森山に対する詐欺犯罪を認め謝罪したら、どうなるかわかっているのだろうな。と威し脅迫しているか、教育行政を預かる役所として龍谷大学に指示しているか、どちらかなのだろう。恐ろしい役所である。自らも僕に対して30年間も犯罪・違法行為をまじえた虐待をし続けて僕を死んだも同然にし、自分が監督している大学に対して、学生や卒業生に、犯罪を煽れと指示し命令しているのである。

2016年1月24日日曜日

龍谷大学を受験しましょう

 大学受験生の皆さん。ぜひ龍谷大学を受験しましょう。龍谷大学は、完全に自由な校風の大学です。自由放任主義を誇りにしている大学です。また、高校を受験する皆さんは、ぜひ龍谷大学の附属である平安高等学校を受験しましょう。甲子園で有名ですね。春夏連続全国制覇など輝かしい伝統があります。中京、PL学園や天理高校みたいなものですね。因みに天理高校は、あのイカサマ師のおっさんの河合隼雄が京都大学教授になる前に勤めていた高校ではないかと、最初に考えていました(「河合隼雄の犯罪」 http://moriyamag.blogspot.my/2013/09/blog-post.html 、「河合隼雄、心のノートで模擬授業を行なう」 http://moriyamag.blogspot.my/2013/09/blog-post_2.html )。どうやら、これは間違いのようです。正しくは仙台育英高校、じゃあなかった、奈良育英高校のようです。それでですね、この輝かしい伝統のある平安高等学校の校名を龍谷大学当局は“安寧高等学校”に変更したいと考えているようです。皆さんは、どう思いますか。“安寧”というのはね、ユング心理学という新宗教団体で修行すると最終的に到達する悟りの境地だと言われています。受験生の皆さん、これはちょっと変だと思いませんか。そもそも龍谷大学やその附属の平安高校は、親鸞聖人の教えをもとにして設立されているのです。仏教の教えによって修行していけば、平安の境地に至るのです。ところが、龍谷大学当局や西本願寺では、平安ではなまっちょろい、平安なんか役に立たない、平安なんか獲得しても何にもならない、と考えているようです。そうして、もっと強力なものを、と探し求めてたどり着いたのが、“安寧”でした。そういうわけで、安寧高等学校に名称変更するというのですが、皆さん、これはおかしいとお思いになるでしょう。各界からも、そんなにオカマを大量生産してどうするのかという疑問の声が上がると考えるのですがいかがでしょうか。ユング心理学とは、愛の不能者、つまり同性愛者を作り上げる心理学なのです。皆さんはご存知でしたか。龍谷大学には、立派な素晴らしい教授がいらっしゃいます。文学部の小島勝教授です。小島勝教授は、龍谷大学構内で詐欺をなさいました。龍谷大学の学長さんたちは、小島勝教授のこの快挙に対して、涙を流して感動して称賛していらっしゃいます。ある理事の方は、小島勝教授の栄誉を称えて、小島教授の退職金を倍額にしたいと理事会で提案なさいました。提案に賛成する理事多数のため、可決される模様です。善行には、しっかりと報いきちんとそれに見合った以上の褒賞を与える、というのが龍谷大学のモットーです。すばらしい大学ではございませんか。受験生の皆さん、迷っていないで速やかに第一志望は龍谷大学と決めましょう。龍谷大学のホームページ( http://www.ryukoku.ac.jp/ )を御覧になりましたか。龍谷大学のキャッチフレーズは、“You, Unlimited”というのです。それでは、この英文を翻訳してみましょう。「嘘をつくたあ惚れたってことよ」と、まあこうなります。なるほど旨い訳だ、と誰しもお思いになるでしょう(「アニマは女性像ではない」  http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post.html )。いやあ、ほんとに気品のある素敵なキャッチフレーズですね。
 以下のメールは、小島勝教授にあてたファンレターです。

龍谷大学文学部小島勝殿

 何度結婚をしても愛を知る由もないわけだな。どうして結婚なんかしたのか。情けない。お前は結婚する資格のないやつではないか。
 お前がオカマでないなら、自分がした犯罪行為について、きちんと償いができるはずだろう。頼みもしないのに、お前のほうから勝手にヘラヘラ笑いながら近づいてきて、詐欺犯罪をなし、抗議すると今度は一転して完全無視して返事さえしない。お前が強制したユングを拒否すれば、今度は一転して拗ねてしまう。何だ、このオカマの振る舞いは。オカマに見込まれて付き纏われて、気持ちが悪くてしかたがないではないか。オカマの付き纏いのしかたは、気味の悪いものだな。お前なんかとは、お近づきになんかなりたくなかったのだ。早く消えてくれ。 
 お前の犯罪仲間の酒井汀はな、いきなり“達磨さんのにらめっこ”をするように、顔をくちゃくちゃにして顰めてみせた。精神病者の気味悪さではあるが、オカマの気持ち悪さでもある。まだユングなんかに心酔しているのか。大馬鹿者。
 早く金を返せ、泥棒。お前が勤めている龍谷大学を、学生や卒業生に犯罪を奨励し扇動しているすさまじい大学にしてしまったではないか。
 “You, Unlimited” 君は制限されてはいない。やりたいことは、何でもできるのだ。好き放題にやりたまえ。それが仏の本願じゃ。勉強したくなければ、そんなもん、せんでええ。“授業”サボってパチンコしたけりゃ、大いにやりゃええ。犯罪?結構結構。大いにやりなはれ。人を騙して金を奪いたい?結構結構。やりなはれ、やりなはれ。龍谷大学は、君の心意気に感じて、いくらでも応援しまっせ。本学の文学部にはな、小島勝という偉い教授がいてはりましてな。立派に詐欺やらはりましたんやで。わてら小島はんのファンになりましてん。小島はん、応援してまっせ。本学では、誰も制限されてはおらん。やりたいことは何でもしてもよろしい。

                                         ーーーーーー

 このオカマどもを、早く何とかしてくれ。気持ちが悪くてしかたがない。

別に龍谷大学の業務妨害をしているわけではない。犯罪被害をいくら訴えても完全に無視し、学生や卒業生に対して犯罪行為を奨励し扇動している大学なんか受験するなと注意を促すのは当然ではないか。こんなすさまじい大学は、潰してしまうべきである。

2016年1月22日金曜日

萎んでいく生命力

 人の創造の泉を覗き込んで盗み見して、そうして得た知見を別の人物に適用し吹き込んで新たに芸術家を作り上げようとしても、新しい“芸術家”は本物には絶対になることができない。たとえて言えば、野生植物ではなくなって栽培植物になるようなものである。生命力が萎縮して減退してしまう。また最初に覗き見され盗み見された人物の創造の泉は、生体解剖にされたようなものであるから、その泉は涸渇してしまう。創造の泉も生き物なのである。ただただ、建設的で前向きなところの全くない、破壊的なだけの残虐行為である。悪魔の仕業である。
 どうか一刻も早く、この狂った恐ろしい連中を社会から追放してもらいたい。

2016年1月21日木曜日

いたずらに長びかせないでもらいたい

 文部科学省は、あちらこちらに虚偽の悪口を言いふらし、僕の人生そのものを破壊しようとする。家族や親戚や友人も、みな敵対者になってまるで犯罪人を扱うかのように断罪して苦しめる。他人は僕を村八分のように扱い、中には、ゆうちょ銀行のように首を絞めて殺そうとするものまでいる。文部科学省は、恐ろしい狂ったユング派を、虐待の仲間に引き入れて、虐待の様相はすさまじいものになった。やつらは、人の精神を押しつぶそうとしているのである。“精神の拡張”(教祖のC・G・ユングの言葉)を御旗に掲げているようだが、“精神の拡張”などありえないことであるし、また、あってはならないことである。“心の成長”や“精神的な成熟”とは話の次元が違う。それは、人間が人間ではなくなることだ(「こころの未来」という言葉の恐ろしさ http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post_9.html )。悪魔になることかもしれない。
 自然の美しさが心にしみて感じられなくなった。音楽をちゃんと聴くことができなくなった。本も読めなくなっているだろう。創造の泉は、もう“湧き出たせてはいけない”ようなことになっているかもしれない。生きている意味がない。ぼんやりとしているだけである。あとは死を待つだけだ。そのうちにまた、いつものように、この恐ろしいやつらが断崖絶壁に追い詰めることだろう。
 どうか、この恐ろしい残虐行為を長びかせないでもらいたい。一刻も早く、この狂ったユング派を社会から隔離してもらいたい。

2016年1月20日水曜日

アニマは女性像ではないPARTⅥ

アニマは女性像ではない」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post.html )

アニマは女性像ではないPARTⅥ

 ときどき、外国をひとり旅している女性にお会いするが、どうかひとりで外国を旅行するのは控えていただきたい。女性のふたり旅でも心配だ。男でさえ、注意を怠らなくても何が起こるか分からないのである。僕は一昨年、ある国で長距離夜行バスに乗っていた。そのバスが人身事故を起こして運行中止になった。こうして、僕が細心の注意を払っているか否かにかかわりなく、自分の責任とは関係のない事由によって、外国の見知らぬ町に真夜中にひとり放り出された。このときの恐ろしさは、たとえようがない。知らない町をしばらくさまよい、ちょっと裏通りに入ると、十匹ほどの野犬がうなり声を上げて近寄ってきたときには、それこそ肝を冷やした。急いで表通りに出る。それから立て続けに起きる首絞め強盗などの災難。首絞め強盗とは、たいていふたり組みで、ひとりが後ろから首を絞め、もうひとりがその間にポケットをさぐって財布を抜き取るのである。財布のほうは、貧乏人だから大して入ってはいなかったが、この時メガネを壊された。これが不便だった。何度か、道を歩いていて、つまづいて転んだ。いちばん危なかったのは、階段を下りていたときに、階段を踏み外したときである。このときは、頭を打つのではないかと思った。いっそあのときに、頭を打って死んでしまえばよかったかな。こんなことを考えるほど、生きているのがつまらなくなってしまった。そしてそれでも、日本にいるよりは、ましなのである。
 去年、日本に一時帰国していたときには、ゆうちょ銀行に殺されそうになった(「アニマは女性像ではないPARTⅤ」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part_18.html )。僕は、文部科学省と途中から文部科学省と手を組んだユング派によって長年虐待を受け続けている。文部科学省による虐待は、もうかれこれ30年ほどになる。途中から虐待仲間に加わってきたユング派による虐待は、20年ばかりになる。ゆうちょ銀行が僕を殺そうとした理由について、いくつか考えられるが、最も真相に近いと思われるのは文部科学省が僕を誹謗中傷しているからではないだろうか。文部科学省による虐待のきっかけになったのは、僕に対するある重大な誤解である。僕は、ずっと、なぜ文部科学省に虐待されているのか、その理由が分からなかったのである。文部科学省による虐待の初期の頃には既に、監視かストーカーのようなことが行なわれていた。それが、ユング派が虐待仲間に加わると、よりすさまじいものになった。文部科学省はユング派に、僕の虚偽の悪口を吹き込んだものと考えられる。さらに文部科学省は、僕への誹謗中傷を様々な方面で行っているのではないだろうか。ゆうちょ銀行が僕を殺しそうになったのも、文部科学省が僕の誹謗中傷をしたからではないか。郵便局を民営化した小泉純一郎や、小泉純一郎の婢女のような遠山敦子の流れをくむ文部科学省のいいなりになるとは、“郵貯銀行”も浅はかなものである。また、上部機関になる内閣(日本政府)にも誹謗中傷をしているかもしれないのである。警察が僕の味方になってくれないのも、そのような理由があるからではないだろうか。このように、警察に助けを求めても無視されて相手にしてくれない、以前に僕にとっては大金を預けていたゆうちょ銀行には殺されそうになる、ということで、これではもう日本には恐くて帰ることができないのである。いつ、ゆうちょ銀行のようなやつに殺されるかわからないのである。
 文部科学省による誹謗中傷は、僕の家にまでも及んでいた。信じがたいことだが、本当である。どこまで卑劣なやつらだろう。そのために僕は、文部科学省の虚偽の悪口を信じこんだ両親や弟から完全に馬鹿にされ、親子の情愛もすっかり失くなってしまった。そのために、肉親の家族からさえも、突っ慳貪なすさまじい待遇を受けなければならなくなった。さらに誹謗中傷は、僕の家の親戚中にまでも及ぶ。親戚にまで及んだのは、僕の家の本家が商売をしているので、顧客として来ていた文部科学省の関係者が悪口を吹きこんだとも考えられないこともないが、僕の両親が広めた可能性のほうが高いかもしれない。僕は身内からも完全に切って捨てられたようである。だから親父の葬式にさえ、喪主になるべきでありながら恐くて出席することができなかった。親類中から吊るし上げを食い、まるで集団リンチのような扱いを受けることが目に見えていたからである。葬式に出席しなかったことが、僕への侮蔑の情にさらに拍車をかけたことは言うまでもない。また友人も、ひとりもいなくなった。僕への誹謗中傷は、職場にまでも及ぶ。そのために職場で、陰湿な嫌がらせや威しを受けるようになった。こうなると、誰でもまともに仕事をすることができなくなるだろう。当然の結果として、退職せざるをえなくなった。その後、新しい職に就こうとしても就職することができない。様々な職に当たってみた。中には、そんなに専門的な知識や技能も必要としない簡単な仕事で、社会的にはあまり高く評価されていなくて就職しやすい仕事にさえも、奇妙な邪魔が入って就くことができないのである。おそらく、悉くユング派か文部科学省の妨害があったのだと思う。何故、このような邪魔をするのだろうか。
 いちばんなりたかったのは、心理カウンセラーである。以上に述べたように、すさまじい虐待を受けている。精神的に、かなり参っていた。立ち直らなければならないと考えて、心理学書に読みふけっていた。そうしているうちに、カウンセラーになろうと思い始めたのである。大学や研究機関は文部科学省が監督しているから、とても就職できそうにない。だから、個人開業しようと考えていた。僕が拠って立つ技法は、RET(Rational Emotional Therapy 日本語訳は「論理療法」)(「金鉱は見つからない」の後記 http://gorom8.blogspot.jp/2015/02/blog-post_15.html )である。龍谷大学を受験する前の年に、他の大学の大学院の心理学専攻を受けていた。龍谷大学よりも学力レベルの高い大学である。僕には、ろくな推薦者がいなかったが、面接官の教授から「この道(カウンセラーへの道)をお進みください」と言われた。僕は、てっきり合格させてもらえるものと期待していた。ところが、結果は不合格だったのである。なんだか、狐につままれたような気がした。実はこのようなこと、普通に歩いていても、突然、前方の道がなくなって消えてしまうとか、当然手に入りそうなものが誰かに横取りされてしまうとか、思いもしない別にほしくもなんともないものが、ころがりこんでくる、というようなことが僕の人生で頻発しているのである。この大学の不合格には、すっかり参ってしまっていた。
 翌年に龍谷大学の大学院を受験して合格した。龍谷大学文学部(日本語日本文学専攻)の大取一馬教授から「(カウンセラーになりたいのなら)うち(の大学)に来ればよい」と言われて受験したのである。大取教授に小島勝教授を紹介されたような格好になった。このふたりは、非常に仲が良いようである。こうして、今までに何度も書いてきた詐欺事件が起きた。実行犯は大取教授と小島教授、正犯は小島教授と面談中(このときユング心理学を学ぶことを強制された)に名前が挙がっていた河合隼雄と氏原寛だろう。小島教授の夫人も、河合隼雄の弟子だと面談中に聞いたから、正犯のひとりである可能性が高い。非常勤講師として龍谷大学に出講していた大谷大学の酒井汀教授も、幼稚なやり方ではあるけれども龍谷大学構内で僕に脅迫したので、正犯のひとりであると思う。このとき、罠にかかったような焦燥感を覚えた。耳をつかまれて、引っ張られて、無理やり龍谷大学に拉致されてきたような不快感を感じたのである。前年の他の大学の不合格は、この龍谷大学における詐欺(ユング心理学の強制)の布石・下工作なのではないだろうか。しかし、前年に大学院を受験して不合格になった他の大学の面接官の教授は、ユング派ではない。これは、どういうことなのだろうか。さっぱり分からない。僕に対する付き纏い、虐待はユング派だけではなく、もっと広がりのあるものだろうか。それとも、面接官だった教授もユング派に付き纏われて妙な示唆やほのめかしを受けたり、この教授に対して何らかの教唆が行なわれているのだろうか。この教授も被害者なのだろうか。
 以上のように、文部科学省に各方面で誹謗中傷された上に、すさまじい虐待を受けているのだから、僕の人生がなくなったも同然である。これは殺人よりも重い罪ではないだろうか。文部科学省の仕打ちは常軌を逸しており、あまりにもひどすぎる。文部科学省の誹謗中傷によって、僕は日本には恐くていることができなくなり、生きていくことができなくなった。文部科学省が不当にも優遇し重用しているユング派は、精神異常者の集団である(「悪魔を元いたところに戻せ」 http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post_2.html )。アニマという“女性みたいなもの”を、一般的普遍的集合的な領域には存在しえない女性像とし、これと対話したり、恋愛の対象としたりもする。これは心理学的に危うい。心理学的に危ういとは、気が狂っているということである。あの気味の悪い酒井汀の“達磨さんのにらめっこ”を見たとき、そう感じた。これは何も酒井汀だけに限ったことではない。河合隼雄も氏原寛も小島勝も小島勝の夫人も、やはり酒井汀と同じように“達磨さんのにらめっこ”をするだろう。
 上述したように、日本には恐くて帰れそうもない。外国にいても、これはいわば逃亡生活だから楽しいわけがない。歌手や作曲家になりたかったのだが、長年の虐待によって生命力が萎んでしまったのだから、もう歌手にはなれそうもない。よぼよぼのじいさんが歌っても、誰が聴いてくれるだろうか。しかも、仮に歌手になったとしても、歌手としての実際の人気の度合い、どれだけの人が好んで聴いてくれているのかという数値を彼らは好き勝手に操作することができるのである。馬鹿馬鹿しくて歌手なんか、やってられない。作曲家になることについては、僕の才能(自分でいうのも少し変だが)を眠りにつかせた(「幻想の黒いオルフェ」 http://moriyamag.blogspot.my/2013/11/blog-post_2028.html )。やつらは、どうも創造の泉に関心があるようなのである。だから、人の創造の泉を覗き見し、盗み見しようとしている。そして、泉をいじってやろうとさえしている。これは、生体解剖と同じである。創造の泉は涸れてしまう。いじられた時点で既に、創造の泉は本来の働きを失っている。本来の創造の泉ではなくなってしまっているのだから、これを別人の創造の泉に適用して、その別人の創造の泉を活性化しようとしても、かえってその泉を駄目にするだけである。僕の創造の泉は、もう回復困難になっているかもしれない。
 何をしても、つまらない。海を見ても、夕焼けの空を見ても、美しさが感じられなくなった。音楽を聴いても、つまらなくなった。大好きなフォーレの曲も、長い間、聴く気になれなくなった。そして、することがなくなった。ただ一日を、ぼんやりと過ごすだけである。そして、いつ恐ろしいやつらが殺しにかかってくるかとおびえているだけである。これでは生きている意味がない。なぜ、ぐずぐずして罪悪を長びかせているのか。人の死の苦しみを長びかせて喜んでいるのか。早く狂ったユング派を、社会から隔離してほしい。

アニマは女性像ではないPARTⅤ」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part_18.html )に書き加えがあります。背景色の箇所。

2016年1月18日月曜日

アニマは女性像ではないPARTⅤ

アニマは女性像ではない」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post.html )


アニマは女性像ではないPARTⅤ

 真理は謙虚で控えめなものである。なぜなら真理は、ほったらかしにしておいても、やがていつかは人々の間に広まっていくものだからである。それを、わざわざ自然の流れに掉さして、“真理”を力づくででも人々に無理強いして吹き込んでやろうとするとき、それが果たして本物の真理なのかという疑念が生じてくる。夙にS・フロイトは、チューリッヒ学派は人の人生を我が物のようにしている、と嘆いていた(『精神分析入門』か『続精神分析入門』だったと思う。「チューリッヒ学派」とは、ユング派のことだろう)。ユングを批判していた“Richard Noll”に対して、まるでストーカーのように“Richard Noll”の活動を妨害していた(“Richard Noll”の二作目のユング批判の著書の後書き。僕は、“Richard Noll”から大きな影響を受けた。因みに、この書物を日本語に翻訳したのは、ユンギアンなのである。ユンギアンとは、実に気持ちの悪いやつらである)。もしもそれが本物の真理ならば、少しぐらい批判されたところで、びくともしないだろう。狂信的に盲信的に、はたまた批判に過度に傷つきやすくなるというところに、その“真理”なるものの胡散臭さやいかがわしさを感じてしまうのである。“Richard Noll”は、その二作目のユング批判の著書を公にして以降、ぱったりとユングを批判する書物を書かなくなった。これはユング派が、“Richard Noll”の著書の出版を妨害していたからではないかと考える。“Richard Noll”のあとに続く著者が現れてこないのも同じ理由によるものだろう。世紀がかわった前後の頃から、ユング派の付き纏いの様相が高度で洗練されたものになった。僕が龍谷大学で被害に遭った詐欺犯罪のような幼稚で原始的なやり方は、もう使われなくなった。そのため、龍谷大学の詐欺犯罪より後では、僕は僕が被っている犯罪行為の証拠をあげることができなくなったのである。これを可能にしたのが、ITなどの科学技術の飛躍的な発展であることはいうまでもない。
 (「アニマは女性像ではないPARTⅣ」 http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part_13.html )で述べたようなやり方を重ねていって、やつらは人と人との関係さえやつらの思いどおりにしようとする。恋愛関係にあるA君とB子さんの仲を引き裂き、B子さんがC君を好きになるように仕向けたりもする。特に芸術などの文化領域で顕著である。対象関係などを操作することが、創作活動により高い創造性をもたらしてくれると信じているからだろう。しかし、このようなやり方が間違っていることは、いまさら言うまでもないことだろう。創造の泉について、芸術や文学には無縁の人種であり、なんの芸術的天分も素養もセンスもないくせに妄想体系にとり憑かれて、ある日突然、自分を芸術家だと思い込んでしまったユング派に何が分かるか。だいたいにおいて創造の泉というものは、人にいじられたら、もうおしまいである。もう二度と清水の湧出しない涸渇した泉になってしまう。そして、偽物の環境の中で生活しなければならなくなる。偽物の環境の中で生きることは、環境の剥奪と同義である。そんな中で産出された作品は、本物にはなりえない。
 アニマは、厳密な意味では女性像ではない。一般的普遍的集合的な領域には愛の対象となりうる女性像は存在しない、あるはずがないのである。そうすると、元型としてのアニマという概念は破綻したのであるから、ユング心理学の思想体系は根底から崩れ去ることになる。元型のひとつが破綻し消滅すれば、ユング心理学に生き残りの余地はない。その“個性化”の最終段階で獲得される“安寧”なるものの境地は偽物であったのであり、強いて言えば、やはり悪魔の安寧であり狂人の安寧だったのである。もう人間でなくなっている。化け物になっているのである。
 ユング派の河合一派は、ほとんどが見合で結婚したのだろう。結婚は本来は、見合でも恋愛でもどちらでもよいはずである。ところが河合一派が、恋愛では心の安定が図れない、などと訳の分からないことを主張しだしたものだから、おかしくなってきた。実際には、ある形の見合結婚が最も危険なのである。河合隼雄をはじめ、河合の弟子達のほとんどが、そのような形で結婚したのだろう。
 自分は恋愛をしたかった、しかし、その機会がなかった。または、ユング派のお偉い先生方が、恋愛結婚では精神が不安定になる、見合でないと駄目だ、とおっしゃっている。それで、しかたなしに「見合結婚をしてしまった」(河合隼雄の言葉。幻の「去り行くアニマ」 http://gorom8.blogspot.my/2015/02/blog-post_10.html )。いわば諦観とともに結婚する。これが最も危険である。何年か経過して、結婚生活も安定してきたかに見えて、子どもも大きくなったときに、何かのはずみで結婚前の恋愛願望が甦ってくるのである。そのとき、行動に変化が見られる。自我による統制が減退してしまうのである。この自我の働きの低下という現象は、人によって様々な様相があろうが、非常に深刻な場合は、子どもをはじめ家族との関係をめちゃくちゃにしてしまうほどのすさまじさがある。家族との縁が切れてしまったケースさえある。ユング派の河合一派も、ずいぶんと罪作りなことをしているものだ。
 自分は別に恋愛したいとは思わない、ということで見合結婚したのなら、何の問題もないわけである。恋愛願望を無理に力で押さえつけて断念し諦めて見合で結婚したなら、後々に禍根を残すことになる。それがユング派の河合一派なのである。彼らは自身の不充足感や不満を癒やそうとして、他人の恋愛を妨害しようとするのである。人が恋をしようがしまいが、自分には関係ないことだ。このように考えるのが正常でまともである。ところが彼らは、正常でもまともでもないのである。精神異常者なのである。恋愛している人や恋愛結婚した人を見ると、言いようのない不快感や嫌悪感が湧き上がってくる。この不快感や嫌悪感のもとになっているものが羨望であることは、言わずと知れたことである。こうしてA君とB子さんの仲を引き裂き、A君とB子さんのふたりに、それぞれ別の相手を割り当てようとする。このようにすることによって、自分自身の恋愛願望を実現することができなかったことから生じる不満を解消しようとする。実に卑しい人格の持ち主ではないか。
 そこで、日本のユング派の軽佻浮薄かつ表面的な見合結婚礼賛と元型としてのアニマとの関係を考えてみる。彼らは見合で結婚した配偶者に、無理やりアニマの像を重ね合わせようとしているのではないだろうか。つまり、現在の配偶者をアニマに仕立て上げようとしているのではないか。こうすることによって、俺の結婚は実のところは見合ではなかった、聖なる意味において真正なる恋愛結婚であったのだ、と自分に言い聞かせようとしているのではないだろうか。何度も繰り返すが、一般的普遍的集合的な領域の住人であるアニマなるものを、現実の女性に投影することは、心理学的に危険である。
 アニマなどというものがあればの話だが、一般的普遍的集合的な領域に“女性像”の存在を認めることは、心理学的に極めて危険であることは言うを俟たない。その“個性化”とやらの初期段階では元型としての影を自我が同化し、中間的な段階では心理学的に危険な女性像と関わりをもつ。ユング心理学とは、変質者を産出する心理学である。だいたいにおいて、来る日も来る日も薄暗い部屋にひとり籠って何やら訳の分からないことを、ぶつぶつ呟いている(教祖のC・G・ユングの個性化)。こんなことで、精神が健全になり健康になると考えたら大間違いである。酒井汀の“達磨さんのにらめっこ”を見たときには、いいしれない気味悪さを感じた。精神病者を見たときの気味の悪さである。長い長い年月、僕はこの変質者たちに付き纏われてきた。この変質者は、どんなことでもする狂気のカルトである。このような狂気の変質者に、最先端の科学技術を手渡すな。直ちに科学技術を狂人どもから回収し、この狂った変質者たちを社会から隔離せよ。一刻も猶予はならぬ。いつまでこの気違いどもを暴れ回らせているつもりだ。
 去年、日本に一時帰国していたときに、ゆうちょ銀行に殺されかかった。ゆうちょ銀行は、文部科学省と手を組んだか、威されたのか、指示を受けたのか、文部科学省が僕の誹謗中傷をしてきたのかは分からないが、とにかく僕の首を絞めるようなことをした。僕は以前、勤めていた頃に、ほぼ全財産を定額預金にして預けていた。全部で多いときには一千万円近くになっていた。僕にとっては大金だが、ゆうちょ銀行にとっては、はした金なのだろう。そんなわずかな金しか預けていない者は、顧客とは看做していないとでもいうのか。恐ろしい銀行である。さらに警察も、僕の命が危ないときに助けを求めても無視したのである。もう日本には恐くて帰ることができない。
 僕はもう、もちこたえられないかもしれない。そろそろ、またいつものように断崖絶壁に追い詰められそうである。これまでに何度も何度も、これでもかこれでもかというふうにして、執拗に行なわれてきたことである。すっかり参ってしまって生命力、生きていく力がおおかた失われてしまった。その上、去年、日本を出国する際には、妨害されて一か月間ほど足止めを食ったので、その時また恐怖のどん底に叩き落された。以上のようなことが繰り返し起こっているので、もう健康もなくしたかもしれない。もう耐えられない。この次に追い詰められたら、生きてはおれないかもしれない。
 俺は死ななければならないのか。文部科学省に根拠のない出鱈目の誹謗中傷された上に、嬲り殺しにされなければならないのか。俺が死ななければ、この狂ったユング派をどうにかすることができないのか。何をやっているのか。ユング派を社会に置いておいてはいけない。こいつらは、人間の社会で生きていくのにふさわしくないやつらではないか。ユング心理学に傾倒し支持して、ユング関係の書物を購入して読んでいる人は、それだけでも、このいかれたユング派の悪行に手を貸していることになる。ユング派をのさばらせた人は、責任をもってユング派を社会から隔離せよ。遠山敦子は何をしているのか。悪魔を野に放ったのだから、悪魔を捕まえて再び檻の中に閉じ込めるのが遠山の義務だろう。無責任にも、自分が放った悪魔をほったらかしにしたまま、あの世へ旅立つな。義務をきちんと履行してから、あの世に行ってくれ。


アニマは女性像ではないPARTⅥ」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part_20.html )

2016年1月13日水曜日

アニマは女性像ではないPARTⅣ

アニマは女性像ではない」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post.html )


アニマは女性像ではないPARTⅣ

 僕には愛を感じている女性がいるが、あるとき我ながら恐ろしい決断をした。僕のほうからの彼女への連絡を断ってしまったのである。彼女から何か言いかけてきても、完全に無視した。これは、僕がもう彼女のことを嫌いになってしまったように見えただろう。それ以前に恋をしたこともあるが、生まれて初めて人を愛した一度きりの経験だった。その彼女への連絡をしなくなることは、死の世界に赴くことを決めるのと同等な決意だった。ユング派に付き纏われて虐待されている恐ろしさと苦しみは、彼女と会って何か月かしたときに、極点に達したのである。その恐ろしさは死の恐ろしさであり、苦しみは死の苦しみである。彼女と付き合っていれば、やつらは当然、彼女をも僕と同じ苦しみと恐怖の世界に叩き落そうとするだろう。最も大事な人を、僕と同じような目に遭わすことができるはずがないではないか。実際に、僕の両親や弟家族もやつらのターゲットになってしまっているのである。連絡を取り合っているだけでも、彼女は恐ろしいやつらのターゲットにされるだろう。
 ところが、僕は間違っていたようである。僕が彼女と連絡を取り合っても、そうでなくても彼女はターゲットにされたようである。なぜなら、彼女はユンギアンが興味をもちそうな音楽界で活躍する人だからである。ただ、彼女と僕が付き合っていても、ふたりの仲を引き裂く仕掛けをしてくるだろうけれども。その場合、永遠の別れになるだろう。
 彼らのやり方は、人が置かれている状況や環境に変化を起こすことである。AさんはBさんと会う約束をしている。ところが、Bさんは約束の時間に来ることができなくなった。Aさんは、そのためにかなりの時間を無駄に過ごした。Bさんの遅刻、または約束のすっぽかしの理由は、乗る予定の電車かバスに乗り遅れた、乗っていた電車かバスが故障して動かなくなった、家を出るときに急な用事ができてきた、Bさんの腕時計がいつのまにか時間が合わなくなっていた、Bさんは、もともとAさんと会いたくなかったので、ぐずぐずしているうちに行きそびれた、など様々なものがありうるだろう。やつらは、その状況において最も効果的な原因で、Bさんを約束の時間に間に合わなくなるように仕掛けをする。そうすると、AさんのBさんに対する感情に様々な変化をもたらすことができる。Bさんを嫌いになったり、その理由によっては、Aさんをかえって好きになったりすることもあるかもしれない。最悪の場合、Bさんを憎むようになることもあるだろう。こうして、二人の仲を変化させるような仕掛けをする。AさんとBさんの仲だけではなく、Aさんの仕事かプライベートでの状況においても、何らかの変化が生じる可能性がある。こういうふうなことをして、やつらは人間関係やターゲットになった人物の様々な状況に手を入れて操作しコントロールしようとするのである。僕が愛を感じている女性も、僕がちゃんと彼女に連絡をとってもとらなくても、このような被害にあっていたようである。そして、やつらの好き勝手な方向に誘導されていたようである。もう僕のことなんか忘れてしまっているかもしれない。
 このような人の活動への介入や人間関係への好き放題な介入は、広範囲で行なわれているようである。特にやつらが興味をもつ芸術など文化領域で著しい。これを可能にしたのが、ITなどの科学技術の飛躍的な発展である。
 このようなやり方で、人間関係、人の人に対する感情、人間活動全般に操作・コントロールが加えられることは、そのターゲットになった人の環境を剥奪していることになる。環境の剥奪とは、その人の置かれている環境が偽物になっているということである。Cさんが間違ってDさんを嫌いになったり、間違ってEさんを好きになったりというようなことが起きるのである。また、そのターゲットになった人の精神の自然な流れに掉さして妨害していることにもなる。
 変質者が荒れ狂う。こんな世界に誰がしたのか。変質者とはユング派のことである。「悪魔を元いたところに戻せ」  (http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post_2.html )でも書いたが、ユンギアンは精神異常の変質者ばかりである。酒井汀がいきなり、子どもが遊びでするように「達磨さんのにらめっこ」をしたときには、気味の悪さを感じた。精神病者を見たときの気味悪さである。この悪魔のような狂人どもを、とっつかまえて檻の中に閉じ込めよ。悪魔を野に放ったものが、責任をもって行なえ。遠山敦子は官僚として大出世して、果ては大臣にまでなったのだから、責任感はあるのだろう。遠山敦子は悪魔を野に放ったのだから、責任をもってとっ捕まえて、再び檻の中に幽閉せよ。


アニマは女性像ではないPARTⅤ
( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part_18.html )

2016年1月12日火曜日

アニマは女性像ではないPARTⅢ

アニマは女性像ではない」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post.html )

アニマは女性像ではないPARTⅢ

 僕は文部科学省によって30年以上、途中から文部科学省と手を組んで加わってきたユング派によって20年以上の長きに亘って、犯罪行為をまじえた虐待を受けてきた。監視のような付き纏いも、同時に行なわれていた。文部科学省による虐待のきっかけになったのは、僕に対する重大な誤解である。僕の行為の意味を取り違えたのである。文部科学省がユング派の河合隼雄を中教審の委員や文化庁長官に任命したり、河合に小中学生全員に配布される道徳の副教材「心のノート」を作成させたりと破格の待遇で重用していたことからも分かるように、文部科学省はユング心理学を恰も国教のように扱い優遇しているのである。文部科学省内で、これの主導的中心的役割を果たしたのが、遠山敦子であるようだ。そうすると、文部科学省による僕に対する虐待で主導的中心的な役割を担っていたのも、やはり遠山敦子ではないかと考えるのも自然であろう。
 このユング派の虐待、しつこい付き纏いで、どうしても分からないのが乞食女のことである(「アニマは女性像ではない」 http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post.html )。二十年ばかりもの間、ずっとしつこく乞食女と結婚させようとしているのである。乞食女と出会ったこと自体に極めて不自然なところがあったので、ユング派が何か仕掛けをしていたのではないかと思う。まるで偏執狂の変質者の遣り手婆みたいなのである。乞食女に“女”を感じてはいない。だから、愛の対象にはなりえない。それなのに、ユング派が乞食女に拘泥するのは何故なのだろう。いくら考えても分かるはずがない。そこで、ありうる可能性として、ユング心理学のアニマ(anima)の元型が何らかの関係をもっているのではないかと推定する。
 僕はアニマと関わりをもったことは一度もない。そもそも集合的無意識などというめちゃくちゃな概念を認めていないのだから(「集合的無意識なんかなかった」 http://gorom2.blogspot.my/2014/12/blog-post_11.html 、「集合的無意識なんかなかった(2)」 http://gorom2.blogspot.my/2015/09/blog-post_29.html )、そこの住人であるアニマの存在を認めないのも当然である。だから、ここで何らかの関与を行なっているのではないかと推定されるアニマとは、あくまでもユング派の心の中に“存在する”と仮定されるアニマのことである。なんという途方もない素っ頓狂な馬鹿みたいな話ではないか、と誰もがすぐに気がつくだろう。しかし、ユング派は、このように気違いじみているのである。とても相手になんかしたくないやつらだが、向こうからストーカーのように長い年月、付き纏っているので、我慢して馬鹿みたいなことも書かなければならない。アニマは(あるとすれば)前にも書いたとおり、一般的普遍的集合的な領域に属するものである。このような領域に属する“女性らしきもの”、“女性みたいなもの”は、愛の対象にはなりえない。“女”を感じないからである。アニマを投影した女性も、愛の対象にはなりえないのである。これを無理やり愛の対象にしてしまったら、精神的な危機に陥るだろう。“PARTⅡ”で書いたように、ユンギアンやユング心理学に傾倒している連中が精神異常者ばかりだということの理由がお分かりだろう。
 僕が長い間ユング派に付き纏われ虐待されていることの理由と原因について、次のように断じざるをえない。愛も知らない、恋もしたことのない河合隼雄(死去。息子の河合俊雄が引き継いだと考えられる)、氏原寛、酒井汀、小島勝、小島勝の夫人、大取一馬、遠山敦子の同性愛的衝動の現れである。
                                                             (PARTⅣにつづく)

アニマは女性像ではないPARTⅣ
( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part_13.html )

2016年1月9日土曜日

アニマは女性像ではないPARTⅡ

最初の青いフォントの箇所は、「アニマは女性像ではない」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post.html )に書き加えた記述を、ここに転用したものである。

 C・G・ユングがいやらしいのは、愛を知らない、愛を経験したことが一度もないくせに、あたかも自分が愛を知っているかのような顔をしていたであろうからである。これに多くの人が騙されたにちがいない。ユングは、この人々の重大な誤解と自分自身の自分に対する誤解の両方を最大限に利用して、現実行動をしていたのである。これは、限りなく偽善者に近い。だから、ユングのいやらしい悪臭には、鼻を覆うばかりである。毎日毎日、薄暗い部屋に終日ひとりこもり、壁に向かって何やら訳の分からないことを、ぶつぶつ呟いている。コミュニケーションと遮断された世界に、こもりきりになる。こうして達成された“個性化”(C・G・ユングの個性化)なるものによって、人間の精神が健全になるわけがなかろう。愛を経験する基盤も能力も、みずから手放しているのである。人を愛する能力がまったくないくせに、あたかも自分はその能力を有していると装いながら、女弟子に近づき不倫関係になった。これをもって、いやらしい下司野郎と言わずして、何と言えばよいのか。元来、ユングという人物は現実的実際的行動、いわば世俗的な行動を起こす資格すら有してはいないのである。世の中の普通の当たり前の平凡な人々が感じるであろう、ささやかな幸せを感じてはいけないのである。そのようなささやかな幸せは、ユングの分にすぎる。浦島太郎は、龍宮城でもらい受けたものを利用して現世で生きていくことはできない。とにかくユングやその後継者達は、社会に出て行って一旗上げてやろうなどと、大それたことを考えてくれるな。これでは、人間の社会が、人間の精神が、世界そのものが凋落するのである。人類は、滅びへの道をまっしぐらに突き進むことになってしまう。
 ユング派が考えている“愛の生活”なるものを推察してみよう。男性の側から見たものである。何らかの仕方で、男は女性にアニマを関わらせている。アニマは女性像ではないのだから、すなわちアニマには愛の対象となりうる女性性がないのだから、すなわちアニマには“女”を感じえないのだから、そこに愛は不在である。ならば、これはどんな関係なのか。ひとつ屋根の下に、男同士または女同士が一緒に住み、ある目的(この目的自体、大したものでないこと言うまでもない)に向かってともに戦い、歩いていこうと同盟を結んで共同生活をしているようなものである。つまり、これは友情なのである。友情と愛とは全くの別物なのであって、わざわざこんなことを殊更あげつらうことのほうが馬鹿げている。ユング心理学のアニマという概念について、ロマンチックな幻想を抱く人があるとすれば、心理学的に危ういとみなければならないのではなかろうか。
 C・G・ユングは、自分の結婚生活が友情を基盤にして成り立っていたのを誤解して、これを愛の生活であると勘違いしていたであろうが、これでは当然、欲求不満になってくる。それで女弟子と関係をもったのである。ユングの後継者達、日本の後継者達も、同じように欲求不満になっているのだろう。しかし彼らが教祖と同様に、不倫しているかどうかは知りようがない。氏原寛は、自分がカウンセリングを受けていることを著書で公言するほどの精神異常者なのだから(「悪魔を元いたところに戻せ」 http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post_2.html )、そのうちに自分の著書で何か書いて、臆面もなく公言してくれるかもしれない。龍谷大学の小島勝教授は、厳密にはユンギアンではないが、大学の“授業”中に何か言ってくれるかもしれない。あたしってさ、二度も結婚したのに女房に愛を感じたこと一度もないのよ。困ったわね。どうしたらいいかしら。あら、どうしたのでしょう。オホホホホ。あたし、いつの間にオカマになったのかしら。遠山敦子もユンギアンではないが、とっくの昔にオカマになっている。ちょっと待ってくれ。遠山敦子は女だぞ、あれでも。オカマの女性版は、何というのかな。オヤカン?オナベ?オシャモジ?オ炊飯器?まあ、どうでもいいや。元文部科学大臣遠山敦子は、旦那に“男”を見いだせないで、それならば自分が男になってやろうと、出世街道をひた走りに走り続けていたのだろうか。そして、新国立劇場理事長になったとき、暴君になって、何人もの芸術家を斬って捨てた。女傑のオ出刃包丁である。
 オカマやオカマの女性版どころか、愛のないユンギアンの欲求不満が高じると、もっと恐ろしいことをしでかしてしまう。他人の愛に、ちょっかいを出しだすのである。人の愛を妨害し、潰そうとする。A君とB子さんが恋仲だと知れば、B子さんがA君を誤解するような重大な出来事を出来させる。こうして、ふたりの仲を引き裂き、B子さんがC君を好きになるような仕掛けを行なう。こうしてユンギアンは、人の愛を邪魔だてすることによって、自身の愛の欠如による欲求不満を解消しようとする。恋愛なんか、しないほうが心の安定が図れるぞ、という御旗のもとに。自分が恋愛した経験がないものだから、このような御旗を考案したのである。特に芸術家を中心に、このような介入が広範囲に亘って行なわれているようである。音楽ならば、クラシック音楽やポピュラーミュージックなどの作曲家や演奏家や歌手などである。それから、画家や彫刻家などの美術家や文学者等である。そして、このような人間活動に関する介入は、何も恋愛だけに限ったことではないが、文化全般に及んでいき、政治や経済やスポーツなど様々な分野でも行なわれるようになった。その動機は、ユング心理学の優秀性を証明し、世界中の人々がユング心理学に敬服し心酔し、心理学や精神医学をユング心理学が完全支配し、ユング派が世界を支配しコントロールするためである。この人間活動全般に対する介入を可能にしたのが、ITなどの科学技術の飛躍的発展である。
 僕は文部科学省によって30年以上、途中から文部科学省と手を組んで加わってきたユング派によって20年以上の長きに亘って、犯罪行為をまじえた虐待を受けてきた。
                            (PARTⅢにつづく)

アニマは女性像ではないPARTⅢ」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part_12.html )

「こころの未来」という言葉の恐ろしさ

最初の青いフォントの箇所は、「アニマは女性像ではない」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post.html )に書き加えた記述を、ここに転用したものである。

 「こころの未来」とは何事か。これは河合俊雄が設立したのであろう京都大学の研究機関の名称である。人間精神を改変してやろうというのか。人間の心が変容するのは、成長とか成熟とかと呼ばれているものである。悪い意味では、堕落という言葉が相当するか。堕落は、一気にやってくる可能性がないでもないが、成長や成熟は、かたつむりの歩みのように遅々とした歩みであり、動いているのか変化しているのかどうか、見た目には分からないものである。河合俊雄の「こころの未来」とは、ユングの「精神の拡張」を念頭においているのだろう。人間の「精神の拡張」とは、風船にいっぱいに入れている中の空気だけを一気に高温にして膨張させるようなものである。風船は、当然破裂するだろう。人間の「精神の拡張」とは、人間世界から飛び立ち、はるかかなたの世界へ飛び去っていくことである。つまり、人間ではなくなることである。河合俊雄も親父の後をついで、河合隼雄そっくりの大馬鹿者だ。親父のように氷のように冷たく恐ろしいのだろう。
 河合俊雄は人間であることが厭なようである。現在の自分の心に満足していない。現在の自分の心を消し去りたい、抹殺したいと考えているようである。それなら、さっさと自分で死を選んで自分の首を絞めてしまえ。お前なんかが死んでも誰も悲しみやしない。社会の害虫が、一匹いなくなったと喜ばれるだろう。

2016年1月8日金曜日

「アニマは女性像ではない」の書き加え

アニマは女性像ではない」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post.html )に何箇所か書き加えがあります。最新の書き足しは、終わりのほうの黒の背景に白抜きの文字の箇所。

2016年1月2日土曜日

悪魔を元いたところに戻せ

 ユング心理学に傾倒して、その“個性化”を果たして強い人間になり邪悪で恐ろしくなるよりは、このまま弱い人間のまま一生を終えたほうがよい。
 ユング心理学の個性化の過程において、まず影(shadow。内なる悪)の元型が自我に取り込まれる。これは、自分の中には悪い面があるなあ、ということを認めること以上の次元のことである。自我が悪を同化(assimilation)してしまうのである。ヤクザやマフィアに自己同一化するのと同じである。そうして始まった個性化の過程の最終局面において獲得される安寧の境地が悪魔の境地になることは、分かりきったことではないか。このようなやつらを社会に置いておくわけにはいかないのである。
 真理は控えめで謙虚なものである。押しつけがましくなって人に強制しようとするとき、真理と考えられていたものは、真理なんかでなかったことが証明される。
 悪魔に至る道であるユング心理学の個性化の過程では、結局は人間性を失い、また異常心理になる。河合隼雄は、二度のウソツキ退職(詐欺犯罪)を行い、子どもの心理検査の非人間的な取り扱いを批判されると、怒って日本臨床心理学会を飛び出して心理臨床学会という変な名称の学会を設立した。心理臨床という用語は、日本語としておかしい。このように河合は、非人間的で反社会的である。河合の行動は、正常でまともな人間の行動ではないことは、誰の目にも明らかだろう。氏原寛は自分の著書の中で、自分がカウンセリングを受けていることを公言している(書名は忘れた)。このカウンセリングは、教育分析とかスーパービジョンとかと呼ばれているものではない。自分がカウンセリングを受けているとすれば、それを人には話したくないと考えるのが、当たり前でまともで正常である。氏原のように、自ら進んで人に話し、しかも著書で公言するのは異常である。氏原は、精神異常者である。氏原はまた、読むに耐えないひどい文章、小中学生の作文かと思われるような文章しか書けないくせに、やはり著書で作家になりたいと公言しているのも異常心理の表れである(氏原寛著『カウンセリングの枠組み』ミネルヴァ書房刊)。遠山敦子が新国立劇場の理事長であったときに、芸術的天分も何もないくせに自分を芸術家だと思い込んで思い上がり、何人もの芸術家の首を絞めるようなことを行ったのも、異常心理である。僕に対して詐欺を行なった龍谷大学文学部の小島勝教授は、普通の人ならば話したがらない自分のプライバシーに属することを、大勢の人の前で堂々と臆面もなく話していた。当然ながら、これも精神異常である。ユング心理学とは、このように非人間的な精神異常者を作り出す心理学であるとも言えよう。
 遠山敦子は、悪魔を日本の野に放ったのだから、再び悪魔をとっ捕まえて檻の中に幽閉せよ。それが遠山の義務だ。わたしの知ったことではないなどと、無責任なことを言うな。悪魔を野放しにした者が、悪魔をもといたところに戻す。これは当然だろう。この悪魔どもは、陰でコソコソとどのような悪事を働いているか、分かったものではない。遠山が、新国立劇場の理事長であったときに、したようなことだ。芸術的文学的天分も素養もセンスもないくせに、奇矯な妄想体系にとりつかれて、ある日突然、自分を芸術家だと思い込んで、気に食わない何人もの芸術家にすさまじい弾圧を加え、その首を絞めるようなことをしたことだ。だいたい遠山の文章は、そのブログを読めば分かるように、役人の文章以外の何ものでもないではないか。いったい、どこに文学的芸術的天分が認められるのか。文学や芸術とは無縁の人種だ。恥ずかしくないのか。この厚顔鉄面皮ババア。ユング心理学という妄想体系にとりつかれて、ただの犯罪者になってしまったではないか。ユング派は、遠山のような悪事を陰でコソコソとどれだけやっているか分からないのである。狂人どもに、権力の一端を譲り渡すという愚行をなしたからだ。狂った悪魔どもから、分け与えてしまった権力の一部を取り返して、再び悪魔を檻に閉じ込めよ。ぐずぐずするな。お前がぐずぐずと先延ばしにすれば、悪魔に見込まれた人々の苦しみは深くなり、社会が荒廃するだけだ。

2016年1月1日金曜日

アニマは女性像ではない

 アニマ(anima)という元型は、ユング心理学の個性化の過程の中間的な段階において現れてくるようである。アニマは、男性の心の中の女性像とされている。これに対して、女性の心の中の男性像は、アニムス(animus)であるとされているが、このアニムスについては、僕にはさっぱり分からないので、ここでは触れないことにする。
 アニマが女性像であるとすれば、仏教でいえば弁財天(弁天。 Sarasvati)のようなものか。アニマは元型であるから、その住処は集合的無意識である。集合的無意識から立ち現れてきて、時として女性に投影される。このアニマが、恋愛においてどのような働きをしているのか、どのような役割を担っているのか、僕にはさっぱり分からない。とにかく、このような訳の分からない、むちゃくちゃな概念について考えることさえ厭わしい。
 アニマが集合的無意識から現れてくる女性像ならば、その容貌はどのようなものだろうか。集合的無意識はあらゆる人類共通の無意識なのだから、そこから現れてくるアニマなるものは、Aさんの心の中のアニマも、Bさんの心の中のアニマも、Cさんの心の中のアニマも、Dさんの心の中のアニマも、すべて同じ容姿や顔つきをしているのだろう。また、黒人男性の心の中のアニマも、白人男性の心の中のアニマも、黄色人種の男性の心の中のアニマも、やはり同じ顔つき容姿をしているのだろう。ちょっと待ってくれ。そんな馬鹿なことがあるのか。それでは、女性像ではないではないか。ただの石ころか、せいぜい粘土を捏ねて作った何かの像みたいなものではないか。そんなものは、女性像なんかではない。心の中の女性像とは、あくまでも個人的な経験が母体になっているのである。アプリオリ(a priori)な女性像などというものはない。
 男性が女性に“女”を感じるのは、その女性が個別的具体的な存在だからである。血が通い、息遣いが感じられる女性でなければ、“女”として認めがたい。一般的普遍的集合的な“女性らしきもの”には、“女”を感じない。女性性を具有していないのである。われわれは女神や弁天には“女”を感じることはないのであって、愛の対象となりうる女性性を女神や弁天は具有してはいないのである。もしも女神か弁天に恋をした男がいたら、その男は狂人として扱われ、現実の世界、人間の社会で生きていくことができなくなるにちがいない。女神か弁天を、またアニマを投影している女性に恋している男も、同様の運命を辿るにちがいない。アニマも、愛の対象となりうる女性としての資格がないのである。したがって、一般的普遍的集合的な“女性らしきもの”を投影したような女性と恋に落ちることもないし、愛を感じることもない。ユング派は、まさにこのような狂った人々ではないのか。
 ユンギアンやユングの信奉者達は、すべからく愛から見放されている。遠山敦子が愛を知っているわけがなかろう。本当に愛を知っているのなら、人に対して、それも何人もの芸術家に対してあのように残酷になれるはずがないのである。龍谷大学文学部の小島勝教授も、愛を知らない。二度も結婚していながら、一度も愛を経験したことがないとは、ちょっと情けない気がしないでもない。愛を知っているのならば、人に対して、今度は僕に対してだ、あのように残酷になれるわけがない。こちらから願ったわけではない。勝手にヘラヘラ笑いながら向こうから近づいてきて、犯罪行為を行い、抗議しても今度は手のひらを返すように完全に無視しやがる。返事さえしないのである。僕は、このような冷たい恐ろしい人物とお近づきになんかなりたくなかった。
 夏目漱石の『三四郎』で、与次郎が、“ Pity's akin to love.”という英文を「可哀想だた惚れたってことよ」と翻訳して広田先生に叱られる場面がある。ここで与次郎が叱られたのは、翻訳の表現が俗悪すぎるからであって、英文の内容とは関係ない。だが、憐れみが愛に転化することは、絶対にない。憐れみと愛とは、全くの別物であり、異質なものである。水と油なのである。水が油に変化することはない。もしも男がある女性に“女”を感じていて、その女性が愛対象になりうるのならば、憐れみというもってまわったような、うそうそしい一次的手続きを践まないで、いきなり本題に入ることだろう。夏目漱石は、英文学を研究したことによって得られた観念をもとにして恋愛を扱った小説を書いているようである。実体験を基盤にしているのではないのである。中世の歌人が、昔読んだ物語の一場面を思い浮かべながら、恋の歌を作っているようなものだ。そのような恋愛小説に、一体どんな意味があるというのか。ユング派は、この夏目漱石と似たような、同じような次元の過ちを犯している。体験や経験を消し去り、それにかえて、一般的普遍的集合的な観念で置き換えようとする。これはもう、文化破壊や精神破壊としか言いようのないものである。また同様に、人間愛が狭義の愛、つまり異性間の愛に転換することもない。人間愛と狭義の愛も異質な別の物なのであって、人間愛が狭義の愛に転化することは絶対にない。
 僕は、愛を感じている女性との仲を卑劣な手段で引き裂かれた。かわりに、愛のない女性との結婚を強要され続けてきた。僕は、それに抵抗しているために何度も何度も、これでもかこれでもかというふうに、断崖絶壁に追い詰められて死の恐怖を幾度も味わわされている。たとえ話にしよう。男が道を歩いていると、道端で乞食女が座り込んでいる(このたとえ話は、あまり適切ではないだろうが、分かりやすくするためには仕方がない)。男は乞食女をかわいそうに思い、幾許かの施しをした。乞食女は、男のこの行為を、男の愛の表現と勘違いしたのである。もしくは、乞食女は男の行為に触発されて、自分は男を愛していると、自分自身の心を取り違えて解釈したのである。その様子を見ていたユンギアンが、男を拉致して監禁し、暴行を加えて脅迫した。その乞食女と結婚せよ、そうすれば乞食女はその不幸な境遇から脱することができるであろう、と。ここでユング派の頭の中で、元型としてのアニマがどのような働きをしていると考えているのか見当がつかない。その乞食女に、アニマが投影されているとでも考えているのだろうか。愛も知らない、恋もしたこともないから、めちゃくちゃなことを考えるものだ。男は乞食女に“女”を感じていないのであって、それはつまり、乞食女は愛の対象になる資格がないということである。憐れみや人間愛が、狭義の愛に転化することは決してない。愛も知らない、恋もした経験もないユンギアンが、他人の愛や結婚に臆面もなく口を出しちょっかいを出すとは何事か。恥ずかしくないのか。ユンギアンが愛を全く知らないし、恋もしたことがないのは明らかである。彼らには、現実世界との関わりがないからである。虚構の世界のみに棲息している、人間ではない生き物だからである。だから彼らの中の男性は、現実の血が通い息遣いが感じられる女性と向き合った経験が皆無なのである。せいぜいアニマなどという、とても女性性を具有しているとは思えない奇妙な何かの像を、目の前にいる女性に投影して、その投影を受けた女性の女性性を剥奪しているのである。こうしてユンギアンは、愛のない世界に踏み迷い、さまよっている。そして愛ではないものを愛であると無理やり自分に言い聞かせようとし、他人にも愛を断念させて、愛にあらざるものに縋れと強要する。砂漠に迷い、さまよう人が、蜃気楼の幻影を見て、それに縋りつくようなものである。一本の草や木も生えない荒寥たる世界に、自己満足して浸かりきっているから不思議なものである。
 ユング派が愛を知らないのは、すべてを一般的普遍的集合的なものに求めようとするからである。度を越した精神主義とでも言うべきものだろうか。精神主義も過度になりすぎると、かえって精神が荒廃する。白河の水が清らかすぎると、かえって田沼の濁りが恋しくなる。きれいは汚い、汚いはきれい、なのである(『マクベス』冒頭の魔女の言葉)。過度の精神主義は自己の精神を荒廃させるばかりではなく、他者の精神を押しつぶすものである。S・フロイトは、「エディプス・コンプレックス」という衝撃的な概念を提唱したために、精神分析は、いやらしいと見限って、ユング心理学に走った人もいるかと思う。ところが実生活では、S・フロイトよりもC・G・ユングのほうが、はるかにいやらしいのである(女弟子との関係)。集合的無意識のどこを探しても、愛に至るものは見つからない。愛から離されて、遠のいていくばかりだ。


アニマは女性像ではないPARTⅡ」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part.html )
アニマは女性像ではないPARTⅢ」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part_12.html )
アニマは女性像ではないPARTⅣ
( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part_13.html )
アニマは女性像ではないPARTⅤ
( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part_18.html )
アニマは女性像ではないPARTⅥ」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part_20.html )

A HAPPY NEW YEAR

 新年おめでとう。
 今年こそ悪魔の手下どもをとっつかまえて、檻の中に閉じ込めていただきたい。言わずと知れた狂ったユング派のことだ。
 河合隼雄の氷のような冷たさ恐ろしさを思い返してほしい。龍谷大学は、まだ分からないのか。小島勝教授の氷のような冷たさ恐ろしさを。現実との関わりがなく、虚構の世界のみに生きている者の精神が健全であるわけがないのである。教祖のC・G・ユングの個性化からして不健全であったからだ。遠山敦子が新国立劇場理事長であったときに、3人もの芸術家を「コミュニケートできない」といって一時に(いちどきに)くびにしたが、人と「コミュニケートできない」とは遠山が自分自身のことを言っていたのである。