「アニマは女性像ではない」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post.html )
アニマは女性像ではないPARTⅢ
僕は文部科学省によって30年以上、途中から文部科学省と手を組んで加わってきたユング派によって20年以上の長きに亘って、犯罪行為をまじえた虐待を受けてきた。監視のような付き纏いも、同時に行なわれていた。文部科学省による虐待のきっかけになったのは、僕に対する重大な誤解である。僕の行為の意味を取り違えたのである。文部科学省がユング派の河合隼雄を中教審の委員や文化庁長官に任命したり、河合に小中学生全員に配布される道徳の副教材「心のノート」を作成させたりと破格の待遇で重用していたことからも分かるように、文部科学省はユング心理学を恰も国教のように扱い優遇しているのである。文部科学省内で、これの主導的中心的役割を果たしたのが、遠山敦子であるようだ。そうすると、文部科学省による僕に対する虐待で主導的中心的な役割を担っていたのも、やはり遠山敦子ではないかと考えるのも自然であろう。
このユング派の虐待、しつこい付き纏いで、どうしても分からないのが乞食女のことである(「アニマは女性像ではない」 http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post.html )。二十年ばかりもの間、ずっとしつこく乞食女と結婚させようとしているのである。乞食女と出会ったこと自体に極めて不自然なところがあったので、ユング派が何か仕掛けをしていたのではないかと思う。まるで偏執狂の変質者の遣り手婆みたいなのである。乞食女に“女”を感じてはいない。だから、愛の対象にはなりえない。それなのに、ユング派が乞食女に拘泥するのは何故なのだろう。いくら考えても分かるはずがない。そこで、ありうる可能性として、ユング心理学のアニマ(anima)の元型が何らかの関係をもっているのではないかと推定する。
僕はアニマと関わりをもったことは一度もない。そもそも集合的無意識などというめちゃくちゃな概念を認めていないのだから(「集合的無意識なんかなかった」 http://gorom2.blogspot.my/2014/12/blog-post_11.html 、「集合的無意識なんかなかった(2)」 http://gorom2.blogspot.my/2015/09/blog-post_29.html )、そこの住人であるアニマの存在を認めないのも当然である。だから、ここで何らかの関与を行なっているのではないかと推定されるアニマとは、あくまでもユング派の心の中に“存在する”と仮定されるアニマのことである。なんという途方もない素っ頓狂な馬鹿みたいな話ではないか、と誰もがすぐに気がつくだろう。しかし、ユング派は、このように気違いじみているのである。とても相手になんかしたくないやつらだが、向こうからストーカーのように長い年月、付き纏っているので、我慢して馬鹿みたいなことも書かなければならない。アニマは(あるとすれば)前にも書いたとおり、一般的普遍的集合的な領域に属するものである。このような領域に属する“女性らしきもの”、“女性みたいなもの”は、愛の対象にはなりえない。“女”を感じないからである。アニマを投影した女性も、愛の対象にはなりえないのである。これを無理やり愛の対象にしてしまったら、精神的な危機に陥るだろう。“PARTⅡ”で書いたように、ユンギアンやユング心理学に傾倒している連中が精神異常者ばかりだということの理由がお分かりだろう。
僕が長い間ユング派に付き纏われ虐待されていることの理由と原因について、次のように断じざるをえない。愛も知らない、恋もしたことのない河合隼雄(死去。息子の河合俊雄が引き継いだと考えられる)、氏原寛、酒井汀、小島勝、小島勝の夫人、大取一馬、遠山敦子の同性愛的衝動の現れである。
(PARTⅣにつづく)
「アニマは女性像ではないPARTⅣ」
( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part_13.html )