「アニマは女性像ではない」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post.html )
アニマは女性像ではないPARTⅤ
真理は謙虚で控えめなものである。なぜなら真理は、ほったらかしにしておいても、やがていつかは人々の間に広まっていくものだからである。それを、わざわざ自然の流れに掉さして、“真理”を力づくででも人々に無理強いして吹き込んでやろうとするとき、それが果たして本物の真理なのかという疑念が生じてくる。夙にS・フロイトは、チューリッヒ学派は人の人生を我が物のようにしている、と嘆いていた(『精神分析入門』か『続精神分析入門』だったと思う。「チューリッヒ学派」とは、ユング派のことだろう)。ユングを批判していた“Richard Noll”に対して、まるでストーカーのように“Richard Noll”の活動を妨害していた(“Richard Noll”の二作目のユング批判の著書の後書き。僕は、“Richard Noll”から大きな影響を受けた。因みに、この書物を日本語に翻訳したのは、ユンギアンなのである。ユンギアンとは、実に気持ちの悪いやつらである)。もしもそれが本物の真理ならば、少しぐらい批判されたところで、びくともしないだろう。狂信的に盲信的に、はたまた批判に過度に傷つきやすくなるというところに、その“真理”なるものの胡散臭さやいかがわしさを感じてしまうのである。“Richard Noll”は、その二作目のユング批判の著書を公にして以降、ぱったりとユングを批判する書物を書かなくなった。これはユング派が、“Richard Noll”の著書の出版を妨害していたからではないかと考える。“Richard Noll”のあとに続く著者が現れてこないのも同じ理由によるものだろう。世紀がかわった前後の頃から、ユング派の付き纏いの様相が高度で洗練されたものになった。僕が龍谷大学で被害に遭った詐欺犯罪のような幼稚で原始的なやり方は、もう使われなくなった。そのため、龍谷大学の詐欺犯罪より後では、僕は僕が被っている犯罪行為の証拠をあげることができなくなったのである。これを可能にしたのが、ITなどの科学技術の飛躍的な発展であることはいうまでもない。
(「アニマは女性像ではないPARTⅣ」 http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part_13.html )で述べたようなやり方を重ねていって、やつらは人と人との関係さえやつらの思いどおりにしようとする。恋愛関係にあるA君とB子さんの仲を引き裂き、B子さんがC君を好きになるように仕向けたりもする。特に芸術などの文化領域で顕著である。対象関係などを操作することが、創作活動により高い創造性をもたらしてくれると信じているからだろう。しかし、このようなやり方が間違っていることは、いまさら言うまでもないことだろう。創造の泉について、芸術や文学には無縁の人種であり、なんの芸術的天分も素養もセンスもないくせに妄想体系にとり憑かれて、ある日突然、自分を芸術家だと思い込んでしまったユング派に何が分かるか。だいたいにおいて創造の泉というものは、人にいじられたら、もうおしまいである。もう二度と清水の湧出しない涸渇した泉になってしまう。そして、偽物の環境の中で生活しなければならなくなる。偽物の環境の中で生きることは、環境の剥奪と同義である。そんな中で産出された作品は、本物にはなりえない。
アニマは、厳密な意味では女性像ではない。一般的普遍的集合的な領域には愛の対象となりうる女性像は存在しない、あるはずがないのである。そうすると、元型としてのアニマという概念は破綻したのであるから、ユング心理学の思想体系は根底から崩れ去ることになる。元型のひとつが破綻し消滅すれば、ユング心理学に生き残りの余地はない。その“個性化”の最終段階で獲得される“安寧”なるものの境地は偽物であったのであり、強いて言えば、やはり悪魔の安寧であり狂人の安寧だったのである。もう人間でなくなっている。化け物になっているのである。
ユング派の河合一派は、ほとんどが見合で結婚したのだろう。結婚は本来は、見合でも恋愛でもどちらでもよいはずである。ところが河合一派が、恋愛では心の安定が図れない、などと訳の分からないことを主張しだしたものだから、おかしくなってきた。実際には、ある形の見合結婚が最も危険なのである。河合隼雄をはじめ、河合の弟子達のほとんどが、そのような形で結婚したのだろう。
自分は恋愛をしたかった、しかし、その機会がなかった。または、ユング派のお偉い先生方が、恋愛結婚では精神が不安定になる、見合でないと駄目だ、とおっしゃっている。それで、しかたなしに「見合結婚をしてしまった」(河合隼雄の言葉。幻の「去り行くアニマ」 http://gorom8.blogspot.my/2015/02/blog-post_10.html )。いわば諦観とともに結婚する。これが最も危険である。何年か経過して、結婚生活も安定してきたかに見えて、子どもも大きくなったときに、何かのはずみで結婚前の恋愛願望が甦ってくるのである。そのとき、行動に変化が見られる。自我による統制が減退してしまうのである。この自我の働きの低下という現象は、人によって様々な様相があろうが、非常に深刻な場合は、子どもをはじめ家族との関係をめちゃくちゃにしてしまうほどのすさまじさがある。家族との縁が切れてしまったケースさえある。ユング派の河合一派も、ずいぶんと罪作りなことをしているものだ。
自分は別に恋愛したいとは思わない、ということで見合結婚したのなら、何の問題もないわけである。恋愛願望を無理に力で押さえつけて断念し諦めて見合で結婚したなら、後々に禍根を残すことになる。それがユング派の河合一派なのである。彼らは自身の不充足感や不満を癒やそうとして、他人の恋愛を妨害しようとするのである。人が恋をしようがしまいが、自分には関係ないことだ。このように考えるのが正常でまともである。ところが彼らは、正常でもまともでもないのである。精神異常者なのである。恋愛している人や恋愛結婚した人を見ると、言いようのない不快感や嫌悪感が湧き上がってくる。この不快感や嫌悪感のもとになっているものが羨望であることは、言わずと知れたことである。こうしてA君とB子さんの仲を引き裂き、A君とB子さんのふたりに、それぞれ別の相手を割り当てようとする。このようにすることによって、自分自身の恋愛願望を実現することができなかったことから生じる不満を解消しようとする。実に卑しい人格の持ち主ではないか。
そこで、日本のユング派の軽佻浮薄かつ表面的な見合結婚礼賛と元型としてのアニマとの関係を考えてみる。彼らは見合で結婚した配偶者に、無理やりアニマの像を重ね合わせようとしているのではないだろうか。つまり、現在の配偶者をアニマに仕立て上げようとしているのではないか。こうすることによって、俺の結婚は実のところは見合ではなかった、聖なる意味において真正なる恋愛結婚であったのだ、と自分に言い聞かせようとしているのではないだろうか。何度も繰り返すが、一般的普遍的集合的な領域の住人であるアニマなるものを、現実の女性に投影することは、心理学的に危険である。
アニマなどというものがあればの話だが、一般的普遍的集合的な領域に“女性像”の存在を認めることは、心理学的に極めて危険であることは言うを俟たない。その“個性化”とやらの初期段階では元型としての影を自我が同化し、中間的な段階では心理学的に危険な女性像と関わりをもつ。ユング心理学とは、変質者を産出する心理学である。だいたいにおいて、来る日も来る日も薄暗い部屋にひとり籠って何やら訳の分からないことを、ぶつぶつ呟いている(教祖のC・G・ユングの個性化)。こんなことで、精神が健全になり健康になると考えたら大間違いである。酒井汀の“達磨さんのにらめっこ”を見たときには、いいしれない気味悪さを感じた。精神病者を見たときの気味の悪さである。長い長い年月、僕はこの変質者たちに付き纏われてきた。この変質者は、どんなことでもする狂気のカルトである。このような狂気の変質者に、最先端の科学技術を手渡すな。直ちに科学技術を狂人どもから回収し、この狂った変質者たちを社会から隔離せよ。一刻も猶予はならぬ。いつまでこの気違いどもを暴れ回らせているつもりだ。
去年、日本に一時帰国していたときに、ゆうちょ銀行に殺されかかった。ゆうちょ銀行は、文部科学省と手を組んだか、威されたのか、指示を受けたのか、文部科学省が僕の誹謗中傷をしてきたのかは分からないが、とにかく僕の首を絞めるようなことをした。僕は以前、勤めていた頃に、ほぼ全財産を定額預金にして預けていた。全部で多いときには一千万円近くになっていた。僕にとっては大金だが、ゆうちょ銀行にとっては、はした金なのだろう。そんなわずかな金しか預けていない者は、顧客とは看做していないとでもいうのか。恐ろしい銀行である。さらに警察も、僕の命が危ないときに助けを求めても無視したのである。もう日本には恐くて帰ることができない。
僕はもう、もちこたえられないかもしれない。そろそろ、またいつものように断崖絶壁に追い詰められそうである。これまでに何度も何度も、これでもかこれでもかというふうにして、執拗に行なわれてきたことである。すっかり参ってしまって生命力、生きていく力がおおかた失われてしまった。その上、去年、日本を出国する際には、妨害されて一か月間ほど足止めを食ったので、その時また恐怖のどん底に叩き落された。以上のようなことが繰り返し起こっているので、もう健康もなくしたかもしれない。もう耐えられない。この次に追い詰められたら、生きてはおれないかもしれない。
俺は死ななければならないのか。文部科学省に根拠のない出鱈目の誹謗中傷された上に、嬲り殺しにされなければならないのか。俺が死ななければ、この狂ったユング派をどうにかすることができないのか。何をやっているのか。ユング派を社会に置いておいてはいけない。こいつらは、人間の社会で生きていくのにふさわしくないやつらではないか。ユング心理学に傾倒し支持して、ユング関係の書物を購入して読んでいる人は、それだけでも、このいかれたユング派の悪行に手を貸していることになる。ユング派をのさばらせた人は、責任をもってユング派を社会から隔離せよ。遠山敦子は何をしているのか。悪魔を野に放ったのだから、悪魔を捕まえて再び檻の中に閉じ込めるのが遠山の義務だろう。無責任にも、自分が放った悪魔をほったらかしにしたまま、あの世へ旅立つな。義務をきちんと履行してから、あの世に行ってくれ。
「アニマは女性像ではないPARTⅥ」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part_20.html )