2016年1月9日土曜日

アニマは女性像ではないPARTⅡ

最初の青いフォントの箇所は、「アニマは女性像ではない」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post.html )に書き加えた記述を、ここに転用したものである。

 C・G・ユングがいやらしいのは、愛を知らない、愛を経験したことが一度もないくせに、あたかも自分が愛を知っているかのような顔をしていたであろうからである。これに多くの人が騙されたにちがいない。ユングは、この人々の重大な誤解と自分自身の自分に対する誤解の両方を最大限に利用して、現実行動をしていたのである。これは、限りなく偽善者に近い。だから、ユングのいやらしい悪臭には、鼻を覆うばかりである。毎日毎日、薄暗い部屋に終日ひとりこもり、壁に向かって何やら訳の分からないことを、ぶつぶつ呟いている。コミュニケーションと遮断された世界に、こもりきりになる。こうして達成された“個性化”(C・G・ユングの個性化)なるものによって、人間の精神が健全になるわけがなかろう。愛を経験する基盤も能力も、みずから手放しているのである。人を愛する能力がまったくないくせに、あたかも自分はその能力を有していると装いながら、女弟子に近づき不倫関係になった。これをもって、いやらしい下司野郎と言わずして、何と言えばよいのか。元来、ユングという人物は現実的実際的行動、いわば世俗的な行動を起こす資格すら有してはいないのである。世の中の普通の当たり前の平凡な人々が感じるであろう、ささやかな幸せを感じてはいけないのである。そのようなささやかな幸せは、ユングの分にすぎる。浦島太郎は、龍宮城でもらい受けたものを利用して現世で生きていくことはできない。とにかくユングやその後継者達は、社会に出て行って一旗上げてやろうなどと、大それたことを考えてくれるな。これでは、人間の社会が、人間の精神が、世界そのものが凋落するのである。人類は、滅びへの道をまっしぐらに突き進むことになってしまう。
 ユング派が考えている“愛の生活”なるものを推察してみよう。男性の側から見たものである。何らかの仕方で、男は女性にアニマを関わらせている。アニマは女性像ではないのだから、すなわちアニマには愛の対象となりうる女性性がないのだから、すなわちアニマには“女”を感じえないのだから、そこに愛は不在である。ならば、これはどんな関係なのか。ひとつ屋根の下に、男同士または女同士が一緒に住み、ある目的(この目的自体、大したものでないこと言うまでもない)に向かってともに戦い、歩いていこうと同盟を結んで共同生活をしているようなものである。つまり、これは友情なのである。友情と愛とは全くの別物なのであって、わざわざこんなことを殊更あげつらうことのほうが馬鹿げている。ユング心理学のアニマという概念について、ロマンチックな幻想を抱く人があるとすれば、心理学的に危ういとみなければならないのではなかろうか。
 C・G・ユングは、自分の結婚生活が友情を基盤にして成り立っていたのを誤解して、これを愛の生活であると勘違いしていたであろうが、これでは当然、欲求不満になってくる。それで女弟子と関係をもったのである。ユングの後継者達、日本の後継者達も、同じように欲求不満になっているのだろう。しかし彼らが教祖と同様に、不倫しているかどうかは知りようがない。氏原寛は、自分がカウンセリングを受けていることを著書で公言するほどの精神異常者なのだから(「悪魔を元いたところに戻せ」 http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post_2.html )、そのうちに自分の著書で何か書いて、臆面もなく公言してくれるかもしれない。龍谷大学の小島勝教授は、厳密にはユンギアンではないが、大学の“授業”中に何か言ってくれるかもしれない。あたしってさ、二度も結婚したのに女房に愛を感じたこと一度もないのよ。困ったわね。どうしたらいいかしら。あら、どうしたのでしょう。オホホホホ。あたし、いつの間にオカマになったのかしら。遠山敦子もユンギアンではないが、とっくの昔にオカマになっている。ちょっと待ってくれ。遠山敦子は女だぞ、あれでも。オカマの女性版は、何というのかな。オヤカン?オナベ?オシャモジ?オ炊飯器?まあ、どうでもいいや。元文部科学大臣遠山敦子は、旦那に“男”を見いだせないで、それならば自分が男になってやろうと、出世街道をひた走りに走り続けていたのだろうか。そして、新国立劇場理事長になったとき、暴君になって、何人もの芸術家を斬って捨てた。女傑のオ出刃包丁である。
 オカマやオカマの女性版どころか、愛のないユンギアンの欲求不満が高じると、もっと恐ろしいことをしでかしてしまう。他人の愛に、ちょっかいを出しだすのである。人の愛を妨害し、潰そうとする。A君とB子さんが恋仲だと知れば、B子さんがA君を誤解するような重大な出来事を出来させる。こうして、ふたりの仲を引き裂き、B子さんがC君を好きになるような仕掛けを行なう。こうしてユンギアンは、人の愛を邪魔だてすることによって、自身の愛の欠如による欲求不満を解消しようとする。恋愛なんか、しないほうが心の安定が図れるぞ、という御旗のもとに。自分が恋愛した経験がないものだから、このような御旗を考案したのである。特に芸術家を中心に、このような介入が広範囲に亘って行なわれているようである。音楽ならば、クラシック音楽やポピュラーミュージックなどの作曲家や演奏家や歌手などである。それから、画家や彫刻家などの美術家や文学者等である。そして、このような人間活動に関する介入は、何も恋愛だけに限ったことではないが、文化全般に及んでいき、政治や経済やスポーツなど様々な分野でも行なわれるようになった。その動機は、ユング心理学の優秀性を証明し、世界中の人々がユング心理学に敬服し心酔し、心理学や精神医学をユング心理学が完全支配し、ユング派が世界を支配しコントロールするためである。この人間活動全般に対する介入を可能にしたのが、ITなどの科学技術の飛躍的発展である。
 僕は文部科学省によって30年以上、途中から文部科学省と手を組んで加わってきたユング派によって20年以上の長きに亘って、犯罪行為をまじえた虐待を受けてきた。
                            (PARTⅢにつづく)

アニマは女性像ではないPARTⅢ」( http://gorom2.blogspot.my/2016/01/part_12.html )