2016年1月29日金曜日

愛の不能者

 ついに切り札を切った。今まで、引き延ばしに引き延ばしてきた。とにかく、この札は切りにくい。大変な危険を伴う。当然、やつらはオカマの“しな”を作って言い寄ってくるだろう。オカマは、気に入った相手をオカマにしたがるのである。果たして、これを持ちこたえることができるだろうか。実際に、オカマの“しな”はもう始まっている。
 今を最終戦争と位置づける。この戦いに勝てなければ、もう生きてはおれないだろう。長い長い年月の無益な虐待によって、すっかり生命力を失い、健康も害された。こんな気持ちの悪いやつらを相手にするのに、うんざりしている。芸術には縁がないくせに、遠山敦子のように自分を芸術家だと思い込んだいかれた連中によって、いじられたために創造の泉は、もう駄目になったかもしれない。生き甲斐も希望もなくなった。早く楽になりたいと願ったりもする。日本には、もう帰ることができない。残虐な文部科学省に、暴行陵虐によって30年も痛めつけられている。文部科学省は、あちらこちらに虚偽の悪口を言い広め、たぶん、それを聞いた“ゆうちょ銀行”によって殺されそうになった。多額の定額預金をしていたことがあったから、僕は“ゆうちょ銀行”の顧客のはずではないのか。顧客に手をかけて首を絞める銀行とは、どんな銀行なのか。恐くて日本に帰れるはずがないではないか。しかも、そろそろ、また断崖絶壁に追い詰められるときが近づいている。今までに、何度繰り返しただろう。やつらは、このように絶体絶命のピンチに追い込んで、人を思い通りに操ろうとする。卑しい低級なやつらだ。今度は自殺に見せかけて、その自殺を助けたようなふりをする。その次に、また自殺しようとしたように見せかけて、また救助したふりをする。このようなことを何度か繰り返す。そうして最後に、ようやく無事、御成仏ということになるそうだ。これを嬲り殺しといわずして、何といえばよいのか。恐ろしいやつらだ。どうか、助けてください。
 とにかく冷たい。人に対する優しさとか思いやりとかとは無縁である。人への暖かい感情が皆無のように見える。氷のように冷たいのである。これがユンギアンの全般的な特徴である。愛がないからである。愛を知る能力さえ、初めから持っていないのである。二十年もの年月の間、執拗に付き纏っているのである。その間、ずっと例の乞食女と結婚せよと迫っている(「アニマは女性像ではない」 http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post.html )。乞食女には、“女”を感じることができない。したがって、愛の対象にはなりえない。“女”を感じられない人と結婚するということは、同性婚とどこが違うのか。同性愛者の結婚ではないか。この執念深さ、異常さはいったい何なのだろう。ユング派は同性愛者である、と考えれば納得がいくのである。
 そこで、龍谷大学の小島勝や元大谷大学の酒井汀の僕に対する行動のしかたが、どうも気持ちが悪いということに思い当たった。まるで、「ほの字よ」と言ってるみたいなのである。オカマに魅入られたみたいなのである。そうして、決定的な根拠が見つかった。ユング心理学の元型としてのアニマ(anima)は、一般的普遍的集合的な領域とみなされている領域にあるものだから、絶対に女性像ではありえないという理解に達したことである(「アニマは女性像ではない」 http://gorom2.blogspot.my/2016/01/blog-post.html )。アニマにロマンチックな幻想を重ね合わせたりしたら、極めて危うい。これは愛の不能者がすることである。そして精神病者でもある。愛する能力が欠如しているのである。愛する能力の欠如、これはまさしくユング派のことではないか。
 愛のない、愛することができない人間は、実に残酷である。ところが、不思議なことに、やさしそうな堂々とした態度は、とることができるのである。ユング派の行動のしかたは、心からのものではなく、頭の中で、このような状況のときはこのような振る舞いをすれば周囲の人を感服させることができると、予めシュミレーションを行なったうえで、自分が描いたシナリオどおりに行動しているのである。つまり彼らは、人生を美しく立派に演じ続けているのである。したがって、彼らには誠実さや真摯な情愛というものが全くない。彼らは、陰では実に残酷なことも平気でできる。愛を知らない、愛を知る能力がないものは、実に残酷である。僕に対する執念深さ、残酷さの原因は、彼らが愛の不能者だからである。
 本当に気持ちの悪いやつらだ。どうかユング派を、社会から追放してもらいたい。