ユング心理学に傾倒して、その“個性化”を果たして強い人間になり邪悪で恐ろしくなるよりは、このまま弱い人間のまま一生を終えたほうがよい。
ユング心理学の個性化の過程において、まず影(shadow。内なる悪)の元型が自我に取り込まれる。これは、自分の中には悪い面があるなあ、ということを認めること以上の次元のことである。自我が悪を同化(assimilation)してしまうのである。ヤクザやマフィアに自己同一化するのと同じである。そうして始まった個性化の過程の最終局面において獲得される安寧の境地が悪魔の境地になることは、分かりきったことではないか。このようなやつらを社会に置いておくわけにはいかないのである。
真理は控えめで謙虚なものである。押しつけがましくなって人に強制しようとするとき、真理と考えられていたものは、真理なんかでなかったことが証明される。
悪魔に至る道であるユング心理学の個性化の過程では、結局は人間性を失い、また異常心理になる。河合隼雄は、二度のウソツキ退職(詐欺犯罪)を行い、子どもの心理検査の非人間的な取り扱いを批判されると、怒って日本臨床心理学会を飛び出して心理臨床学会という変な名称の学会を設立した。心理臨床という用語は、日本語としておかしい。このように河合は、非人間的で反社会的である。河合の行動は、正常でまともな人間の行動ではないことは、誰の目にも明らかだろう。氏原寛は自分の著書の中で、自分がカウンセリングを受けていることを公言している(書名は忘れた)。このカウンセリングは、教育分析とかスーパービジョンとかと呼ばれているものではない。自分がカウンセリングを受けているとすれば、それを人には話したくないと考えるのが、当たり前でまともで正常である。氏原のように、自ら進んで人に話し、しかも著書で公言するのは異常である。氏原は、精神異常者である。氏原はまた、読むに耐えないひどい文章、小中学生の作文かと思われるような文章しか書けないくせに、やはり著書で作家になりたいと公言しているのも異常心理の表れである(氏原寛著『カウンセリングの枠組み』ミネルヴァ書房刊)。遠山敦子が新国立劇場の理事長であったときに、芸術的天分も何もないくせに自分を芸術家だと思い込んで思い上がり、何人もの芸術家の首を絞めるようなことを行ったのも、異常心理である。僕に対して詐欺を行なった龍谷大学文学部の小島勝教授は、普通の人ならば話したがらない自分のプライバシーに属することを、大勢の人の前で堂々と臆面もなく話していた。当然ながら、これも精神異常である。ユング心理学とは、このように非人間的な精神異常者を作り出す心理学であるとも言えよう。
遠山敦子は、悪魔を日本の野に放ったのだから、再び悪魔をとっ捕まえて檻の中に幽閉せよ。それが遠山の義務だ。わたしの知ったことではないなどと、無責任なことを言うな。悪魔を野放しにした者が、悪魔をもといたところに戻す。これは当然だろう。この悪魔どもは、陰でコソコソとどのような悪事を働いているか、分かったものではない。遠山が、新国立劇場の理事長であったときに、したようなことだ。芸術的文学的天分も素養もセンスもないくせに、奇矯な妄想体系にとりつかれて、ある日突然、自分を芸術家だと思い込んで、気に食わない何人もの芸術家にすさまじい弾圧を加え、その首を絞めるようなことをしたことだ。だいたい遠山の文章は、そのブログを読めば分かるように、役人の文章以外の何ものでもないではないか。いったい、どこに文学的芸術的天分が認められるのか。文学や芸術とは無縁の人種だ。恥ずかしくないのか。この厚顔鉄面皮ババア。ユング心理学という妄想体系にとりつかれて、ただの犯罪者になってしまったではないか。ユング派は、遠山のような悪事を陰でコソコソとどれだけやっているか分からないのである。狂人どもに、権力の一端を譲り渡すという愚行をなしたからだ。狂った悪魔どもから、分け与えてしまった権力の一部を取り返して、再び悪魔を檻に閉じ込めよ。ぐずぐずするな。お前がぐずぐずと先延ばしにすれば、悪魔に見込まれた人々の苦しみは深くなり、社会が荒廃するだけだ。