2014年12月16日火曜日

咲き誇るどくだみの花

咲き誇るどくだみの花

 ユング心理学における個性化の初期段階において、“影”(元型としての(as an archetype)“影”。“shadow”)の元型が現れるわけであるが、これは、自己の内なる悪なるものの意識化(to become conscious)などというような生易しいものではない。意識化ではなく“影”を同化(assimilation)したのである。自我による“影”の同化なのである。まったく、“どうか”している。
 ユング心理学では、人間の自然の流れに反した、ある意味で実に“大きな”出来事が起こる。これは無論、超越的な世界からの賜物(gift)である。その超越的世界なるものがいかがわしいのは、そもそもの“個性化”の出発点に近いところにある、“影”の元型の自我による同化が、恐ろしい胡散臭いものだからである。
 ユング派がいわゆる個性化を果たしたり、ユング心理学の信奉者達がユングファンになった途端に、芸術に対して興味・関心を持ち出すのは実に気持ちが悪い。本来芸術に無縁な者が、突如として芸術好きになるからである。人間の自然な流れとは関係のない次元において、俄かに芸術好きになるから、気持ちが悪い。
 村上春樹や谷川俊太郎や宮崎駿の作品のような偽物が世界中でもてはやされているようでは、真の芸術家は花開かない。真の芸術家は駆逐され潰される。どくだみの花だけが、これ見よがしに咲き誇る(どくだみの花は、本当は美しいのかもしれないけれど)。村上春樹の本を読んだり、宮崎駿のアニメ映画を観たりするということは、とりもなおさず真の芸術の首を締めていることだ、ということを心に留めておいてほしい。芸術不毛の時代がやって来る足音が聞こえないか。そして、村上春樹の本を読んだり、宮崎駿のアニメ映画を見たりすることは、人間でなくなるレッスンを受けているようなものだ。