2014年12月26日金曜日

Kyoto University 2

 僕はA大学大学院(“Kansai Area”に位置するので、中核大学“Kyoto University”の影響下にある)に在学中にユング心理学の思想を背景にした詐欺犯罪の被害にあったわけだが、まだその犯罪行為が明らかになる前の4月か5月のことである。Kyoto Universityを定年退官したある教育学の教授が、A大学に特任の教授として任用されていた。この教授自身は、そんなに非人間的なようには見えない。むしろ、立派な人格者のような印象を受ける。そして、ユング心理学に対しては批判的な考えをお持ちのようである。ところが、この教授を慕って“Kyoto University”から聴講生としてA大学に押しかけてきた10名近くの大学院生(教育学専攻)たちが、ひどかった。本来、この講義を受講する最も正当な権利を持っているはずのA大学の学生たちを脇において、どっかりと居座る。A大学の学生たちは、隅っこで小さくなっている。そうして、なんの断りもなしに、この講義をビデオ撮りしだしたのである。僕は、これはおかしいと思った。どうしてもビデオ撮影したいのなら、A大学の学生たちに一言断りを入れるのが社会的な常識だろう。また、A大学当局にも事前に申し入れしておかなければならないのではないだろうか。彼らは、薄っぺらなエリート意識をさらけだしなだら、傍若無人に振舞う。僕は、たまらず抗議した。「この講義はA大学で行われている講義です。他大学から受講しに来た人が、どうしてなんの断りもなしに勝手にビデオ撮影するのですか。」教授は、すぐにビデオ撮影をやめさせてくれた。しかし、僕は嫌われただろう。教授は、よそで長年勤め上げてから“Kyoto University”に、定年の年齢に近くなってから移ってこられた。奇跡的に“Kyoto University”の非人間的な伝統的な学風に染まるのを免れていたのかもしれない。自我(ego, Ich)の弱い大学院生のほうは、すっかり非人間的な学風の虜になっていた。このような行動をしたら、他の人たちはどのように受けとめるか、もしかしたら惨めな思いにさせることはないだろうか、ということを大学院生にもなって、しかも教育学専攻なのである、慮ることができないのである。
 ユング心理学の非人間性は、おそらく個を蔑ろにするからだろう。集合的なるものとか普遍的なるものとか、奇妙なものを無意識に仮定すれば、人は個人を尊重しなくなる。全体がすべてになってしまう。政治的な全体主義的な考えと好一対をなす。人はミツバチの社会の一匹となる(「ミツバチの巣で死神を見た」(http://gorom2.blogspot.com/2014/12/blog-post_97.html))。ユング心理学では、今目の前で微笑んでいる人、涙を流している人、喜んでいる人、悲しんでいる人と出会うことはない。集合的無意識などという巨大な障壁が、生身の人と人との出会いを妨げるからである。今笑っているのは、今泣いているのは、集合的無意識とどのような関わりがあるのか、このような観点からしか人を見ようとしないからである。ユング心理学の辞書には、「愛」とか「思いやり」とか「共感」という文字はない。
 “Kyoto University”の非人間的な学風はどうなのだろうか。やはり第二次大戦の軍国主義や全体主義をこの大学が払拭することができないでいて、連綿と伝統として生き残っているからだろうか。             
                          (September 17, 2014)