2014年12月15日月曜日

ミツバチの巣で死神を見た

 ミツバチには、一匹一匹個性があるのかもしれない。しかし、われわれにはみんな同じミツバチに見える。それぞれの個性を認めることができないのである。スイスのチューリッヒにあるとかいうユング研究所(Jung Institute)を訪れてみるがいい。たぶん建物内部には入れてもらえないだろうけれども。彼らは秘密主義だからである。運よく建物の中に入ることができたとして、そこにいる人々を見渡してみると、みんな同じ顔をしていることだろう。同じような物腰、同じような風貌、同じような態度をしていることだろう。同じようなことを考え、同じようなことを感じている、それが彼らJungianである。おっと、これはミツバチの巣の中に迷い込んでしまったかな、と君は錯覚するかもしれない。社会の構成員がみんな同じ顔をして、同じようなことを感じ、同じようなことを考えている。こんな社会にいて楽しいだろうか。人々は幸福に見放されてしまうのではないだろうか。周りの人がみんな同じ顔をして、同じ表情で、考えていることも感じていることもみんな同じ。冗談ではない。これでは、人と人とのコミュニケーションも、環境さえも消えてなくなったのと同じことなのである。今、会っている人と昨日会っていた人と区別がつかない。確かか名前は違っていたと思うが。そう言えば一昨日、会っていた人も同じような顔、表情をしていて言っていることも同じだった。その前の日も、またその前の日も、やはりそうだった。明日も、あさっても同じことだろう。これでは、たまらん。俺が会いたいのは人間だ。ロボットではない、と周囲を見渡してみると、やはりみんな同じ顔で同じ表情をしている。これでは広い荒野で、ただ一人ぽつんと立っているのと同じではないか。環境が消失してしまったのと同じではないか。集合的無意識だの、元型だのと訳の分からないありもしない観念を根本に据えるから、こんなことになってしまうのである。ユング心理学が社会や国家を席巻したとき、人は環境の消失にあえがなければならなくなる。
 超越的世界からすばらしい贈り物(gift)をもらい受けたのならば、どこか世間の片隅でひっそりと暮らしておればよいのだ。それを、すさまじいばかりの出世欲(desire to succeed)や権力欲(power hunger)をもって社会に進出しようとし、人を支配しコントロールしようとするから、おかしなことになってしまうのである。超越的世界からの贈り物を現世で利用しようとすれば、超越的世界と現実世界とが融合してしまう。これは、まさしく狂気の世界である。彼らは社会で生きていくにふさわしくない人々である。彼らが社会でのさばることは、社会にとっての害悪であり人類にとっての災厄なのである。
 彼らはみんな、ゆったりとした落ち着いた態度や物腰で人を魅了し、もしかしたらこの人は大人物ではないかと人々に誤解を与えながら、そのくせ極めて反社会的で非人間的な人々である。
 ユンギアン(Jungian)はユンギアンになったとき、芸術や文化について門外漢であるにもかかわらず、俄かに芸術や文化に興味を持ち出す。これが不思議でならないところなのである。そして芸術や文学に関する訳の分からない批評をやりだす。このユング派の奇矯な批評を、御尤も御尤もとありがたそうに受け取っているやつらがたくさんいるという事実が恐ろしい。河合隼雄(Hayao Kawai)ファンの村上春樹(Haruki Murakami)の愛読者が、世界中にたくさんいることも背筋が寒くなるような気がする。僕は村上春樹を読んだことがないが、また今後も読むつもりはないが、一度ラジオで誰かが村上春樹の作品を朗読しているのを聞いたことがある。何かの作品の数行分である。虫唾が走った。こんなひどいものが世界中でもてはやされている、だから虫唾が走ったのである。言っておくが、これは文学ではない。ヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse)の作品が、文学といえないのと同じことである。ノーベル賞の選考委員も人間だから、時として過ちを犯すこともあろう。そうすると村上ファンという連中は、文学とは何かを知らない連中ばかりだということになる。本来、文学や芸術とは縁もゆかりもない連中が、ユング派や村上春樹や谷川俊太郎(Shuntaro tanikawa)や宮崎駿(Hayao Miyazaki)などにのせられて、間違った観念を植えつけられてしまったのだろう。音楽や美術の世界においても、文学と似たようなことが起きているのだろうか。そうなったら、もうおしまいである。芸術も文学も衰退の一途をたどり、やがては消滅してしまうだろう。ユンギアン(Jungian)やユングファンの連中が芸術や文学を理解したり、それを創造したりすることは不可能なのである。この点を蔑ろにして忘れてもらっては困る。 
 Hayao Kawaiは、ある意味では強力な武器をもって出世の階段を駆け上がっていった。その武器とは臨床心理学者(a clinical psychologist)という肩書きである。心理学でもないユング心理学(Jungian psychology)に立脚しながら、臨床心理学者でございと公言するのもおかしな話だが、とにかくKawaiは、このいんちきな肩書きを前面におしたてて自らのすさまじいばかりの出世欲・権力欲を満たそうとした。人は誰でも今話している相手が著名な心理学者だったりすると、多かれ少なかれ緊張を覚える。もしかしたら、自分の内心に湧きあがっている雑念や恥ずかしい妄想的な気分を相手に見抜かれているのではないか、と考えてしまう。これは感じて当たり前のことなのだけれども、そのように感じることによって緊張し不安になる。Kawaiは、人が感じるこの緊張や不安を最大限利用して、自己の出世を図り権力を握ろうとした。もちろんKawaiは、そんなものを利用する意図などなかったと抗弁するだろう。しかし、少なくとも結果的にはこれを利用していたのである。ある出版社のPR誌でKawaiは書いている。確か岩波書店の『図書』ではなかったかと思う。Kawaiは、よく人から「心の中を見抜かれているようで恐い」と言われるそうである。これはKawaiが、臨床心理学者の肩書きを持っているせいである。これに対してKawaiは、いくら心理学者であっても人の心の中なんか分からない、というような答えをしたそうだが、当然であろう。心理学者ならば、誰でもこのように答えるはずである。そしてそのうちに、「おっ、これはいけるぞ。なかなか強力な武器になるなあ。へっへっへ。」と、あちこちで使い出した。そして、それをカムフラージュ(camouflage)するのが、例のKawaiのヘラヘラ笑いだったのである。  
 Kawaiの攻撃用の武器の餌食になったのが、小泉純一郎(元首相。Jun’ichiro Koizumi)であり遠山敦子(元文相。Atsuko Toyama)その他であった。彼らはKawaiを文化庁長官に起用し、あろうことか日本の子ども全員に配布される道徳の副教材「心のノート」を作成させた。Kawaiを立派な人物だと誤解するということは、Koizumiはそれほどまでに心に不安を抱えていたのか。確かに剽軽な人気者(『ユング心理学批判』「考える力を育てる」http://moriyamag.blogspot.com/2013/12/blog-post_6483.html)というものは、心に不安を抱えているから、そうなるのである。自分の心の空白を埋めたい。そのためには、どうしても他の人から注目され人気者にならなければならない、という強迫観念のような固定観念があるからである。Koizumiが首相としては珍しく剽軽で人気者であった理由である。そのKoizumiや遠山敦子のような愚か者がKawaiを引き上げたのである。さらに文部科学省(Ministry of Education, Culture, Sports, Science and Technology)の役人、京都大学(Kyoto University)のHayao KawaiやToshio Kawai(河合俊雄)の人事に関与した教授たちもKawaiの出世に手を貸した。ここに挙げた人々は、多かれ少なかれ心のうちに不安と恐れとを抱いていたのだろう。Kawaiに心の中を見抜かれているのではないか、という不安と恐れである。その不安と恐れが重要な判断を誤らせたのである。
 攻撃用の武器は防御用の武器にもなりうる。Kawaiは臨床心理学者の肩書きという目くらましを、自分の性格的な致命的な欠陥をカムフラージュすることにも用いた。Kawaiという人物がテレビやラジオに登場していた様子を思い返してみてほしい。とにかく冷たい。氷のようである。南極でブリザードに遭ってしまったかのようである。生まれて以来、人に愛されたことも可愛がられたことも一度もなかったのではないかと思わせるほどである。いくらヘラヘラ、何にもないのにひとりで笑っていても、Kawaiの冷酷さに気がつかない人の目は、よほどの節穴である。そんな目は、くり抜いて銀紙でも張っておけばよい。Kawaiが高校に勤めていたときには、教え子が1000人か2000人、あるいはそれ以上いたかもしれないのに、Kawaiが民間から文化庁長官に就任し、道徳の副教材「心のノート」まで作成し、タレント顔負けの有名人になったにもかかわらず、教え子の誰ひとりとしてKawaiの思い出話を語ろうとする人が現れてこないのである。余程、冷酷な人物であったと考えられる。そしてこの冷酷な性格は、ユング心理学における、いわゆる“個性化”(individualization)を果たした後も変わらなかった。むしろ、その冷酷さに拍車をかけて、より厳しいものとなったようである。
 僕はA大学で、ユング派を背景にした詐欺犯罪の被害に遭った。その詐欺の実行犯であったK教授は、その時より若かった頃には、少々神経質そうなところはあるにしても、理想化肌で人間的であったように見受けられて好感をもつことができた。ところが、詐欺犯罪に加担したときには、既にユング心理学、Hayao Kawaiにかぶれてしまっていたのだが、印象ががらりと変わっていた。神経質そうなところはなくなり、落ち着いて堂々としているのである。そして、ちょっと見には、優しく暖かそうである。もしもK教授に、仕事か何かのことで愚痴をこぼしたとする。すると、実に模範的な答えが返ってくるであろう。しかし、その答えを聞いたとて、僕の気分が楽になることはないであろう。何故なら、K教授のアドバイスなり答えが僕に対する配慮とか思いやりとか元気になってほしいという願いから出たものではないからである。K教授の頭の中では、このようなときには、このようなことを言うべきである、というようなことしか考えていない。今、現にここに存在しているこの僕という人間は、どこか遥かかなたに遠のいてしまっているようなのである。心の中にある観念があり、その観念は集合的無意識とか元型から来たものであり、その観念が指し示す理想像とか指針にすべて従う、というのがユンギアンとかユングかぶれのした人々の行動様式なのである。だから、非常に冷たい。うわべは温かそうな態度を演じることができても、とにかく冷たいのである。現実との接触がないのである。このような人とは、友達になりたくない。お近づきになるのも御免である。K教授のような人と親しくなれば、表面的には優しそうな顔をして、気がついてみると手ひどい目に遭わされるのである。K教授の印象ががらりと変わったのは、ユングかぶれ、Kawaiかぶれしたからなのだけれども、考えてみればHayao Kawaiの態度・物腰にそっくりになっている。表情や顔つきも似てきている。お気の毒なことだが、K教授もミツバチの仲間入りをされたようである。人類に共通している心の層(collective unconscious)などとありもしない概念を基本に据えるから、このようなすさまじいことになってしまうのである。集合的無意識(または普遍的無意識)と名づけたものは、C・G・ユング(Carl Gustav Jung)の個人的無意識にすぎないのではないのか。
 ユング派は、彼ら自身と外界の現実との間に薄い被膜(covering)のようなもので隔てられているようである。このヴェール(veil)のようなものは、鋭い刃物も通さない。人の心を傷つけようとする意図からでた、辛辣で意地の悪い言葉も通さない。そのため、彼らは傷つかない。軽くて丈夫な鎧を着ているからである。このヴェールは、集合的無意識(collective unconscious)とか元型(archetype)とかという妄想体系から招来したものである。妄想体系からもらったものを鎧にしている以上、当然、外界から遮断されることになる。彼らは、人と本当の意味で交わることができない。人が辛苦して築き上げた文化や芸術とも無縁である。それなのに彼らはユンギアンになった途端に、芸術や文化に並々ならぬ関心を寄せるようになる。実に不思議ではないか。彼らが被っているヴェールの出所は、その妄想体系である。その妄想体系では、芸術の創造の源はこの妄想体系であると、自分勝手に申し立てている。しかし、やはり違うのである。この妄想体系は、芸術の創造の源泉ではない。
 ユング心理学(Jungian psychology or analytical psychology)においては、いわゆる“個性化”(individualization)を果たすと、気分的に楽になるようである。それは、“個性化”の最終段階で出現してくる“マンダラ”(mandala)(元型としての“自己”(self, Selbst))の不思議な力による。この“マンダラ”が不思議な治癒力を有するのは、超越的な世界とつながりがあるからである。そして“マンダラ”にはまた、S・フロイト(Sigmund Freud)の心理学(精神分析。psychoanalysis, psychoanalyse)の概念である“超自我”(superego, Über-Ich)の厳しさを引き下げ、緩和する効果があるようである。これは大変結構なことのように見える。しかし、これは諸刃の剣(two-edged blade)である。超自我の厳しさを弱めることは、それだけならよいことなのかもしれないが、ユング心理学における個性化の場合は、道徳感覚(sense of  morality)、道徳意識(moral consciousness)にまでも損傷を与え、場合によっては破壊し、ぼろぼろにしてしまうのである。従って、彼らは反社会的(antisocial)である。そして非人間的(inhuman)である。一見、堂々とした態度で人を魅了し、すさまじい権力欲や支配欲を示し、それでいながら陰でコソコソと悪事を働く人にとってうってつけの心理学なのである。ヤクザな人間が飛びつく心理学なのである。悪魔の心理学(devil's psychology)(psychology of the devil, by the devil, and for the devil)と呼ぶ所以である。