A大学の対応に、さっぱり合点がいかない。A大学で、ユング心理学を背景にした詐欺行為の被害に遭ったわけだが、これは、形式的にはA大学が僕に対して行った詐欺犯罪である 。高額な授業料や入学金等を支払った先は、A大学だからである。だからA大学がまず僕に損害賠償して、その上で実行犯であるK教授とO教授に求償するのが筋だと考える。僕への損害賠償金なんか簡単に捻出できるだろう。K教授とO教授を懲戒免職にすればよいわけだ。そうすれば、極めて高額な退職金を支払う必要がなくなる。そんななかから、僕へのわずかな損害賠償金を支払っても、まだまだ多額の金が残るというわけだ。何の研究業績もあげられない教授を二人ばかり処分したところで、どうってことはなかろう。これまで、このような無為徒食の教授を長年にわたって雇用してきたこと自体、不思議である。
A大学にメールしても、A大学の設立母体である伝統的な巨大な宗教団体に訴えても、返事さえない。いったい、どうなっているのだろう。仏教の教えはもう古い。仏教では何の役にもたたぬ。これからはユング聖人の教えに従うということか。それならば、大学の看板も建学精神も、すべて塗り替えないといけないのではないか。某宗教団体も、さっさと解散したほうがよさそうだ。
「おい。これは困ったぞ。葬式のとき、誰にお経を読んでもらえばいいのかな。」
「決まってまんがな、あんたはん。ユング派の分析家、お経上手に読まはりまっせ。♬ Das ist und sein ahondala mandala jigoku yoitoko ichido ha oide a dokkoisho to kuraa ♬ チーン。」
A大学に無為徒食の教授が寄生しているのは、その他の教授たちも似たり寄ったりだからである。大方の教授が研究業績をあげることができない。すると当然、劣等感を持つようになる。劣等感の塊みたいな人間は、他人から愛想よく持ち上げられたり胡麻をすられたりすると、そのうれしさが身に沁みる。こうしてK教授もO教授も、他の教授に愛想を振りまきながら、自分にとっては重たすぎる地位を何とか保ってきたのである。他の教授も、K教授やO教授と同じなのである。A大学全体が、そのような教授の寄せ集めなのであって、みんなが“退廃的なぬるま湯”(『ユング心理学批判』「九の矢」http://moriyamag.blogspot.com/2013/12/blog-post_4876.html)にどっぷりと浸かっているわけだ。こうしてA大学は次第に凋んでいくことになる。大学というよりも高等学校の延長と言ったほうがよいだろう。
研究業績のない能なしの教授ばかりだから、学長も理事も似たり寄ったりである。京都大学(Kyoto University)がユング派(Jungian)を大切にして雇っている。ユング心理学というものは、きっとありがたい教えなのだろう。うちの教祖よりもユング聖人のほうが立派な方かもしれない。と、このように考えたのだろうか。学内で、ユング派による詐欺犯罪が起きても、犯罪者のほうを庇ってしまうのである。主体性も何もない。果たして自我(ego, Ich)はあるのだろうか。結局できることといったら、変な思想を背景にした詐欺犯罪ぐらいになってしまう。そして、その後始末さえも自分でできないのである。
A大学の設立母体である宗教団体が拠って立つ教えは、大変大らかで人に優しい教えである。その大らかで人に優しい教えであることが、却って裏目に出てしまって、A大学の沈滞につながっているのではないだろうか。葬式のためだけの宗教が大学を設立したところで、そんな大学に社会的意義があるはずがないということなのか。ただ葬式だけのための宗教団体が設立した大学だから、覇気も向上心もない大学になってしまうのである。ただ人の振りを見て真似しているだけの大学になってしまったのである。