Hayao Kawaiをはじめユング派の連中が芸術や文学について訳の分からない講釈をしている。ユングファン・Kawaiファンの村上春樹(Haruki Murakami)のくだらない作品が世界中で売れているそうだ。僕はこのような状況に抗議するために、僕が20歳頃から作り貯めてきた、音楽と文学領域の作品を敢えて発表しないことを決意した(『ユング心理学批判』「幻想の黒いオルフェ」http://moriyamag.blogspot.com/2013/11/blog-post_2028.html)。ユンギアンという偽物の芸術愛好家達に、どうもつけ狙われているらしいと感じたことも、その一因である。こんなことになったら、もうおしまいだと思った。
文学とはとてもいえない村上春樹の作品が世界中で売れている状況で僕がどんなによい作品を作って発表しても、無視されて顧みられることはないだろう。最小限の生活費さえ稼ぐのも、ままならないことになるだろう。だから、作曲家と歌手になる希望を断念した。音楽の領域のほうが文学よりも精彩がある、と自分では思っている。
歌は保育園児の頃から、ずっと誉められ続けてきた。文章は、高校生の頃から誉められるようになった。「文章がうまい」とか「才能がある」とかと言われた。これは中学生時代に、世界文学全集とか日本文学全集とかを読み漁っていたからではないかと思う。好きな作家は、アンドレ・ジイド(André Gide)、ヴィクトル・ユゴー(Victor Hugo)、堀辰雄、有島武郎である。大学生のとき、ある科目が全然分からなかった。それで試験のときに、それこそ口から出まかせの出鱈目の答案を書いて提出した。合格点には程遠い代物である。ところが返ってきた成績表には、ぎりぎりの合格であることを示す“可”の評価とともに、次のようなコメントが付されていた。「才能があるようなので、可をあげます。才は知識の裏づけがあって初めて生きるものです。心せられよ。」僕はこの戒めを、今に至っても守っていないようである。知識が乏しく狭い、ということは僕の大きな弱点なのに。
3か月ちょっと前に、日本から辛うじて持ってきた世界の昔話の英語とドイツ語の原書数冊、英語とドイツ語の紙とCD版の辞書、そして大切にしていたフォーレ(Gabriel Fauré)の「夢のあとに」などが収録されているCD数枚を手放す羽目になった。その後、一生のうちに果たして経験することがあるだろうかと思われるような、すさまじいことが立て続けに起こった。
薔薇ならば花開かん。もしも僕に幾許かの才能があるとしても、僕は自分の才能について確信を抱くことができなかった。そして、薔薇かどうかは分からないけれども、ともかく花が開く前に、まだ蕾の状態のときに摘み取られてしまった。